『回想録』(改訂版)


(1)チェロとの出会い

 

 私がチェロを始めたのは、高校二年生になったばかりの頃であった。

 学校は小田急線沿線の玉川学園にあり、小高い丘の要所要所に幼稚部から大学部までのすべての校舎と施設が点在していた。

 大学にはアマチュア・オーケストラがあった。ある日そのオーケストラからチェロのメンバーが足りないというので、高等部へ募集のチラシが回って来たのだ。それがチェロを始めるきっかけとなった。

 

 私は基本的に勉強が嫌いで、どちらかといえば芸術分野の方に興味をそそられていた。本を読んだり詩を書いたり、或いは音楽を聴きながら瞑想に耽るのが好みであった。

 中学時代にトランペットを吹いていたこともあり、楽器をやることに抵抗感はまったくなかった。むしろ知らず知らずの内に何かしらの楽器をやってみたいという気持ちが募っていたのかも知れない。チェロ募集のチラシを見て即座に飛びついたのだった。

 

 放課後、募集チラシを握りしめてオーケストラの部室を訪ねた。

「僕、チェロをやりたいんです。」

 目の前にいる何だか偉そうな人に声を掛けると、

「おお、そうか。良く来た、良く来た。」

「でも僕、チェロは持っていないないんですけど・・・」

「そんなものはオヤジに買ってもらえば好いのさ。」

 その偉そうな人がいとも簡単にいうものだから、

「はい!」

 私は、つい大きな声でこたえてしまった。

「そんなら今度は楽器を持ってきたまえ。チェロの手ほどきをしてやるから!」

 

 その晩、私は父にチェロをやりたいので楽器を買って欲しいとせがんだ。父にしてみれば、私がまともに勉強をする気配がないのを見て、いずれろくでもない遊びを覚えるよりはましだと考えたのであろうか、案外あっけなく聞き入れてくれたのであった。

 後日、目出度くチェロを入手。一番安いスズキのチェロを買ってもらったのだ。私は喜び勇んですぐにでも楽器を手に取って見たかったのだが、袋を開けるのが怖かったので取りあえずそのままにして置いた。

 

 私が再び部室へ赴いたのは、楽器を入手した次の日のことであった。

 またあの偉そうな人がいた。一体この人はどういう人なんだろうと思いながら話を聞いてみると、彼はオーケストラのチェロ・セクションでトップを弾いていることが分かった。あだ名は、カザルスと言った。

 この時、私はまだカザルスという意味を知らなかったのだ。しかし、音楽の神様と尊ばれている偉大なチェリストの名前であることを後で知り、なるほどあだ名通りといおうか何といおうか、さすがチェロ・セクションの中で一番上手く、また力強さもあったし、とにかく認めざるを得ないのであった。

 北海道出身、材木屋の倅で大陸的豪快なイメージを呈していた。

「ほら、楽器を袋から出して!」

 と唐突な声。

 私が恐る恐る楽器を出そうとしていると、

「もたもたしない!」

 というように投げやりな口調でいう。しかし思いがけず親切に手を貸してくれて、最終的には楽器の出し入れから取り扱い方まで教えてくれたのであった。

 

 そして、第一回目の記念すべきレッスンである。おおかた2時間に及んだかと記憶している。先ずは心構えの説明から始まった。

「楽器を持って椅子に座る前には、必ず弓に松脂を塗っておくこと。塗り方はこんな具合に・・・」

 カザルスは、そのやり方の手本を実際に示し、そして更につづけた。

「これが済んだら調弦をするわけだ・・・見てみろ、弦は太い方から順に細くなっているだろ・・・この一番太いやつが【ド】で、チェロでは一番低い音だ。それから【ソ】【レ】【ラ】という順に四本並んでいる。この【ド】と【ソ】、【ソ】と【レ】、【レ】と【ラ】の隣り合わせの弦と弦の間は、すべて完全五度の音程になっている。この完全五度というやつは、二つ合わさる和音の中でもっとも開放的な響きがするんだ。それなんで調弦もし易い。といっても初心者には難しいか!とにかく慣れるしかない。慣れてコツを覚えるよりほかないな!」

 カザルスは実演して見せた。

「こんな具合だ。うん!」

 自分で納得したように頷くのだったが、私にはちんぷんかんぷんであった。一度聞いたり見たりしただけで直ぐにできる内容ではないのである。

 

 引き続き楽器の構え方や弓の持ち方を教わる。わけても弓の持ち方については何としても難しく、頭が混乱し四苦八苦となった。

 そしてドレミファである。取りあえず二オクターブのハ長調の音階を弾けるまでやった。 初回の一通りの手ほどきを終えて彼が言ったことは、

「あとは自分でやれ!そしてこの楽譜のこの部分を弾いて来い!」

 と・・・

 手渡された楽譜は、何とベートーヴェンの第九の4楽章であり、彼が指差したのはあの一般にも良く知られている『歓びの歌』の一節であった。

「えっ!」

 私は呆然とした。

 こんなにたくさんの音符を初心者の私にどのように弾けというのか・・・。たった今、やっとの思いで二オクターブの音階が弾けるようになったばかりなのである。

「いや僕には~」

 と私なりに何をか言わんとするのだったが、カザルスは一つも耳を傾けようとはしない。そして、最後にこう言うのだった。

「この部分だけで好い。これが弾けたら年末の第九演奏会にのせてやる!」

と・・・。

 


 

(2)無我夢中

 

 言うまでもなく、私は勉強などそっちのけでチェロを復習った。復習って、復習って、復習いまくった。

 音階もろくすっぽ弾けないのに『歓びの歌』を弾こうというのだから、余程無謀な稽古であったが、そうこうしている内に何とかその一節を弾けるようになって来たのである。いや、自分で勝手になったつもりと言った方が適切かも知れない。

 ラ~ラ~ラッ、ララ~ラ~ラッ、ラ~ララッ、ラ~ラ~ラッ・・・・

 

 第一回目のカザルスのレッスンを受けてから数日後のことであった。私は再びオーケストラの部室へと足を運んだ。

 ドアの隙間から中を覗くと、カザルスがゴウゴウガアガアとチェロを弾いていた。その姿は、当時の私にとってはまさに驚異であった。難しそうなパッセージをパラパラと弾いていたのである。

「おお、来たか!」

 豪快な声がチェロの音と共に響いた。そして彼はチェロを床のうえにゴツンと置いた。

「少しは弾けるようになったか?」

「はい、少し・・・」

「そんなら弾いてみな!」

 そう言われて、私はチェロを袋から出し、内心ビクビクしながらあのメロディを弾き始めた。

 ラ~ラ~ラッ、ララ~ラ~ラッ、ラ~ララッ、ラ~ラ~ラッ・・・・

「なんじゃそりゃ!音になっていないし、リズムもへったくれもないじゃないか!」

 カザルスは一言二言怒鳴ると、

「こういう風に弾くんだ」

 彼は何ともスムーズに且つ魅力的にあのメロディを弾き始めたのであった。私はしばしボ~ッと聴いていたが、いつしか彼の演奏に完全に取り憑かれてしまい、ふと、その怖いカザルスが神様のように思えてきたのであった。

「まあ好い。始めたばかりだしな。来週オケの練習に来たまえ」

 思いがけないことだった。ついにオーケストラの練習に参加する許しが出たのだ。長足の進歩?いやそうではないのだ。実際にオーケストラの中に入ってやってみれば、どうしたって未熟さを自覚せざるを得ない。実はその自覚が大事なのであった。

 

翌週、私は初めてオーケストラの練習場に出向いた。そこには大学生たちが何十人もいた。ピーピーという音や、ブーとかボーとかピロポローとか、皆それぞれに色んな音を出している。

 私は練習場の入り口のところに立ち止まり、どうして好いものかモゾモゾしていると、ぽちゃっとした顔立ちの可愛らしいお姉さんがニコニコしながら近づいて来た。(後で詳しく触れることになるのだが、実はこのお姉さんこそ、私の初恋の人である。)

「あんた今度入った子?」

 やっぱりガキに見られた。

 咄嗟に、私は一瞬照れるようにしてニッコリと愛想笑いをし、

「はい、そうです。」

 とこたえた。

「こっちにおいで・・・こっち、こっち」

 私はお姉さんに促されるままについて行った。

 練習場とはいっても、それほど広くはなく、隙間がないほどにぎっしりと椅子や譜面台が並んでいた。楽員たちはまだまばらに座っていて、音を出すかと思えば楽器の穴をのぞき込んだりして、それぞれが好きなように楽しんでいるように見えた。

 お姉さんと私は、そのわずかな隙間をぬって、入り口から奥へと進むのだったが、慣れているお姉さんはさっさと行ってしまうのだ。私は弾いている人に接触しないよう恐る恐る進み、やっとの思いでお姉さんについて行くのだった。

「あんたの席はここよ!」

 私の席はセクションの末尾にあった。

 

カザルスはまだ来ていなかった。すでに座っていたチェロの人は3人で、男の人がふたりと女の人がひとりであった。男の人は「よお」と言い、女の人は「こんにちは」と言ってくれた。

 それから私は袋からチェロを取り出し、席に座って音も出さずにキョトンとしていると、何とさっきの可愛らしいお姉さんが私の左隣に座った。同じチェロだったのである。私はちょっと見とれてしまった。

 

しばらくしてカザルスが入って来た。堂々たる風格を呈していた。周辺の仲間に声をかけながらトップの席に座った。すると頭を直ぐさま後ろに回し、私に一瞥を流した。

 チェロ・セクションの6人が揃った。他の楽員たちも、練習が始まる前には全員揃っていたようである。

 

高校生は、私ひとりだけであった。

 


 

(3)オーケストラの初体験

 

常任指揮者が現れた。時間ぴったりの登場であった。

 リーゼント・スタイルで痩身のややキザっぽい感じがする二十六、七のお兄さんであった。

 団員たちは、音出しやおしゃべりを一斉に止め、指揮者に目を注ぐのだった。

 

常任指揮者が第一声を口にする。

「おはようございます!」

 えっ、夕方なのになんで「おはよう」なの・・・オーケストラの決まり文句をまったく知らない私には、その時はとても不思議におもったものである。

 常任指揮者は続けて言う。

「新人を紹介します。高等部から来た瀬越君です。皆さんよろしく頼みます!」

 すると団員たちが一斉に拍手をするのだった。私に対する歓迎の意思表示なのであろうか・・・。私にとってはすべてが初体験であったから、ただ戸惑うばかりである。

「瀬越君、立ってあいさつを・・・」

 常任指揮者に指名され、私は咄嗟に立ち上がったが、余りに突然だったので心臓が止まりそうになった。

「・・・・・」

 私は言葉を失い、ピョコンと頭を下げただけで座ってしまった。

 

「それでは、今日は、四楽章の頭からやります」

 常任指揮者が神妙な顔つきで指揮棒を振りかざすと、練習場の静寂は一瞬にして破られ、凄まじい管楽器の音響で充満した。そしてその一頻りは、たった数秒間で終わった。

 次の瞬間である。私を除くチェリストの全員が楽器を構えた。後で知ったのだが、チェロセクションの背後にいたコントラバス・セクションの全員もチェリストと一緒に構えたのである。

 常任指揮者の体がこちら側に向き直った。

正面に指揮者の顔がはっきりと見えた。キリッとした表情であった。棒が、静かにゆっくりと振り下ろされた。するとチェロとコントラバスの低弦セクションが一斉に荘厳な一節を奏で始めるのだった。

 もちろん、私は微動だにできない。左隣に座っているお姉さんも真剣な面持ちで弾いている。

 私の硬直状態は続いた。

 

しばしの間、管楽器群と低弦群の激しいやり取りが続き、次第に穏やかな響きへと変わっていった。序奏のような部分があたかも区切りのように治まると、お姉さんはパート譜をめくった。(本来、右隣にいる私がめくらなければならないのだが、いっこうに楽譜が読めていないうえに、席次の役割分担を認識していないのであった。)

「ほら楽器を構えて、今度はあんたも弾くのよ!」

 と、お姉さんが囁く。

「えっ・・・・・」

 私は一応お姉さんに倣って楽器を構えるのだった。

 

常任指揮者は穏やかな表情を浮かべ、棒を胸の辺りまで持ってきた。

 いよいよ例の『歓びの歌』の一節が始まるのである。ここは、私が唯一弾ける部分なのだが・・・緊張感が走る。

 常任指揮者が胸の位置にかざしていた棒をそっと動かすと、トップ奏者のカザルスはほんの僅かだが頭を前後に動かした。それは、指揮者が振り下ろした棒の着地点と、奏者たちの弓の発音点を一致させるための極めて重要な作業だったのである。

 奏者たちは、常任指揮者の棒の動きと共にカザルスの頭の動きにも気を配りながら、全神経を集中するかのように弾き始めた。しかし、私にはどう足掻いても音が出せない。何故なのだろう・・・焦りばかりが脳裏を駆け抜けるのであった。

 そうした私の心の乱れとは裏腹に、美しい天使のようなメロディは流れるのだった。

 

常任指揮者は、そのメロディが新たな展開を見せるあたりで止めた。

「頭からもう一度!」

 彼は部分的に一言づつ説明を加えながら、何度も繰り返した。練習は、およそ一時間半ほど続いた。

「ここで休憩します!」

 

結局私は、一音すら発することが出来なかったのだ。指を押さえる位置が定まらないのと、弓が思うように弦の上に乗ってくれないのであった。

「どうしたの、弾けなかったの?」

 私がガックリしたふうに仏頂面をしていると、お姉さんが声を掛けてきた。

「全然ダメなんです。」

 すると気の毒に思ったのか、お姉さんは微笑みながら、

「それじゃあ、今私がちょっと教えてあげるわ。」

 お姉さんは、けっしてカザルスほどの上級レベルではなかったが、私と比べれば遙かに上手だった。貴重な休憩時間を利用して、お姉さんは私に幾ばくかの指導をしてくれたのであった。それはまさしく手取り足取りの指導であった。

「ここはこの指で押さえるのよ・・・こうして、こうして指を順番に運ぶのよ・・・弓はこう、腕の力を抜いてスッ~と弾くのよ。」

 お姉さんの手の感触は優しかった。

「それじゃあ、一緒に弾いてみましょうか」

 私はお姉さんの弾き方を見様見真似で追い、何回か一緒に弾いているうちに、少しづつ音が合うようになって行くのだった。

 

カザルスはと言うと、休憩場所で他の団員たちとタバコを吸いながらだべっていたようである。

 

休憩時間が終わり、また皆がドッと集まった。

 


 

(4)第九と初恋

 

 「それではもういちど第四楽章の頭から・・・さっき止めたところまで一気に行ってみようと思います。今度は止めませんからね!」

 常任指揮者は、指揮台の上にピョコンと飛び乗るなり言うと、すぐに指揮棒を振り上げた。

 

 休憩時間を割いて、お姉さんが弾き方のコツを教えてくれたので、私の中に少しばかりの自信と意欲が芽生えていた。今度こそ最後まで弾き通すつもりで身構えるのであった。

 

 練習場にふたたび大音響が鳴り響いた。打ちのめされるような激しい不協和音である。そして次の一瞬の静寂を確かめると、不協和音を打ち消すかのようにチェロとコントラバスが堂々たる一節を奏で始める。それはまさにベートーヴェンならではの快挙の一節である。レシタティーヴォ=叙唱(本来オペラなどで台詞を語るように歌うやり方)という形式で書かれている。

 この辺は、私にはまだ難しくて一音たりと弾けない。だから『歓びの歌』の部分が現れるまで、ひたすら神妙な面持ちで待つしかなかった。

 休憩前の練習では、常任指揮者は途中何度も演奏を止めてやり直しをしたが、今度は止めることはなかった。音楽は滞りなく流れ、そしていよいよである。

 

 そう言えば、冒頭の管打楽器と低弦の掛け合いの部分について、常任指揮者が「ここは善悪のやりとりだ」と説明していたのを思い出した。ベートーヴェンのすさまじい精神の発露なのだと・・・。「果たしてこれは聖書に由来しているものなのであろうか」と考えたりもした。

 最後のレシタティーヴォが終わると、激しさを跳ね返すように音楽的風情が一変し、そして天上の音楽へと移行するのだ。

 

 ついに私は、『歓びの歌』の一節を最後まで弾き通すことができたのであった。端から見れば、如何にも辿々しく危なっかしい様であったに違いない。しかし最後まで弾き通したことは事実であった。お姉さんの優しい指導の賜物である。

 すべてはまさに偶然からもたらされた体験であるが、それによって自分自身の心に譬えようのない感動を喚起させることができたことは大きな進歩であった。

 私は、そのシーンを決して忘れない。私の青春の一ページであり、永遠に持ち続けたい初心なのである。

 

 オーケストラの練習には、毎週欠かさずに行った。時にはカザルスに手解きしてもらうこともあった。

 確か月に一回だったと思うが、プロのプレイヤーが来て、集中的にセクションのレッスンを受けることもあった。夏の合宿に参加し、朝から晩までチェロを弾いたこともあった。

 大学生たちとの生活にどっぷり浸かり、いつしか私は大人びていたかも知れない。おおっぴらには言えないが、そこで酒も覚えた。今ならとんでもないことだが、当時はまだ暢気な時代であった。教育の場も、大らかさでいっぱいだった。

 

 十二月も半ばを過ぎれば、いよいよ本番である。

 『第九コンサート』は学園の目玉行事で、毎年お祭りのように盛大に行われたのであった。会場は東京文化会館大ホールである。合唱も同校の高校生と大学生が歌った。

 因みに高校部では、第九を歌うことがカリキュラムに加えられていたので、私も歌えるようにはなっていたのだ。不思議にも長い間、ずっと鼻歌のように口ずさんで来た。

 もちろん今はもう歌えと言われても無理だが・・・。

 


 

(5)はじめての舞台

 

 高校生の分際で大学オケに仲間入りし、初めてチェロを弾いてから半年余りが経ち、幸か不幸か東京文化会館大ホールの舞台を踏んだ。

「このメロディを弾けたら、舞台にのせてやる!」

 と言ったカザルスの言葉が、現実となったのである。

 

 数ヶ月前は、一音を発することすらおぼつかなかったのわけだが、先輩たちの特訓、わけてもお姉さんの面倒見のお陰で何とか弾けるようになった。もちろん弾けるとはいっても、精々でタカが知れている状況であったが・・・。

 

 お姉さんは大学2年生、教育学科の学生であった。最終的に確認したわけではないが、卒業後は恐らく小学校の教諭になったのだと思う。

 実は授業の合間をぬって、私は彼女に楽譜の読み方なども教えてもらっていたのである。彼女の時間が空いてさえいれば、いつでも何らかの理由をつけて接触していたのである。

私にしてみれば、チェロを習うために出向くというより、お姉さんに会うことが一番の目的だったと言うことになる。ある意味、会いたい一心で通った回数だけ上達したと言っても過言ではあるまい。

 もしや、お姉さんも少しは私に気があったのかも知れない。それでなければ、なぜそれほどまでに面倒をみてくれたのか・・・私の勝手な想像である。

 特別美人ではないが、優しい面立ちの可愛らしいお姉さんであった。私より四つほど年上である。これが私の初恋である。

 

 当時から私は詩を書いていた。四季派の流れを汲む同人誌『山の樹』の詩人・鈴木 亨氏(堀辰雄の弟子)に詩作のアドバイスを受けていた。師は、大正世代の代表的な詩人の一人であった。悲しいかな平成十八年暮れに逝去された。また一人、日本の文学界は貴重な正統派の詩人を失ってしまったのだ。 

 私が読んだ本は、日本文学、西洋文学と幅広かったが、どちらかと言えば詩の方が多かったかも知れない。

 

 私がお姉さんに思いを寄せていた時分に読んでいたのが、島崎藤村の『初恋』であった。何という偶然の一致・・・少々出来過ぎの感じがしないではないが、とにかく藤村の『初恋』に感銘を受けたのである。

 何故このようなことを書くかと言うと、付け足しになるのだが、実はこの時生まれて初めて作曲をしたのである。作曲のサの字も解かっていない私にどうして作曲ができたのか、自分でも信じ難い出来事であった。人間の強い思いや憧れというものは、時に奇跡をもたらすこともあるようだ。まさに初恋の切なさが、それを誘発したに違いない。自然とメロディが湧いて来たのである。

 

 家には、一応ピアノが置いてあった。ろくすっぽ弾けないのだったが、鍵盤を一音一音叩きながら作曲したのだ。作品は、『島崎藤村の詩による歌とピアノのための初恋』であった。愛するお姉さんへの私からの唯一の捧げ物であった。しかし、その楽譜をお姉さんに見せたことはないし、伝えたこともない。ついついチャンスを逸してしまったのである。それゆえお姉さんは、自分のために書かれた曲が存在していることを全く知らない。

 

 爾来四十数年が経ち、昨今それを幾つかのパターンにアレンジしている。プロの演奏家として生きて来た現在、その作品をもう一度見直し何らかの形で完成させたい思いに駆られたのであった。もしもお姉さんに何処かで偶然に会う機会でもあれば、その『初恋』をもって若かりし頃の思い出話に花を咲かせたいものである。もちろんあり得ないことだとは思っているが・・・。

 

 余分な話を挟んでしまった。

 さて、いよいよ第九のリハーサルである。舞台上には数十名のオーケストラ団員と数百名の合唱団員が乗っている。ほぼ全員学生である。学園全体の行事であるからして事のほか盛大であり、見るからに壮観である。

 

「みなさん、おはようございます!」

 常任指揮者が普段よりもはるかに大きな声を発した。

「おはようございま~す!」

 全員が受け答えた。

「いよいよ本番です。これまでやってきたことが良き成果となって表れるよう、また悔いのないよう全身全霊を傾けましょう!」

 普段の練習よりもかなり引き締まった口調であった。

「それでは、リハーサルを始めます。リハーサルは練習ではありませんから、当然止めないで最後までやります。本番のつもりでやってください!」

 常任指揮者がそう言って棒を振り下ろすと、

凄まじい音響が会場一杯に響き渡った。大学の練習場でのそれとはまったく違い、余韻が心地良くホールに充満するのだった。その刹那、私の体に鳥肌が走ったのである。これも初めての生々しい体験であった。

 そして次の瞬間襲いかかったのは不安であった。果たして自分の弾く音は客席に聴こえるものなのだろうか・・・もし私の下手くそな音がお客さんに聴こえたらどうしよう・・・そんな風なことが脳裏を過ぎるのだった。

 もともと完璧に弾けているわけではないのだから今更どう足掻いても仕方がない、常任指揮者が言うように精一杯やるしかないと自覚しつつも、心境は複雑であった。

 リハーサルは滞りなく終わった。一時間後には本番となる。私たちは用意された弁当を食べた。ご飯が一粒も喉に通らない人もいたようでだが、私はぺろっと食べた。

 

「憲ちゃん、お弁当食べた?」

 楽屋の通路で行き逢ったお姉さんが声を掛けてくれた。

 楽屋は、男女別々になっているので、私はさっさと弁当を食べてから、もしやと思って通路に出て立って待っていたのである。案の定、姿を現わしてくれた。

「お姉さんは?」と私が聞くと、

「ううん、食べられないの」

 お姉さんはとても緊張していたようである。

すでに何回も本番を経験した人でも緊張するものなのかと、これも初めて知ったことだ。

私には返す言葉が見つからなかった。一応私も不安を抱えてはいたが、やはりガキなのであろう。暢気なものであった。

「本番、頑張ろうね!」

と言いながら、お姉さんはあっけなく行ってしまった。

 もう少し傍にいて欲しかったのだが・・・

やっぱり僕なんか・・・これが恋の病というものか。

 

 本番前の一ベルが鳴った。皆、舞台袖に集まっていた。合唱団もいるので、芋洗いのようにごった返していたと言う方が適切であろう。しかし、皆さすがに無口であった。

 ところが、カザルスは違っていた。誰かと話をしながら時折「アッハッハ」と笑い声を上げたりしていた。

 私はお姉さんの傍に陣取っていたが、会話は一言も交わさなかった。この時、私の心境がどれほどのものだったか記憶にないが、恐らくキョトンとした具合であったか、或いはお姉さんのことを賢明に考えていたかえある。

 高校生のくせに髪をオールバックにして大人びた風体をしていたが、結局右も左も分からない少年だった。いわゆるお坊ちゃんである。

 失敗を繰り返してこそ、緊張感の何たるものかを知るのであろう。しかし、切実な失敗たるものが己の身に降りかかるというのは滅多にあることではない。

 

 二ベルが鳴る。いわゆる本ベルである。

 先ずは合唱団が上手下手から舞台へ出る。そのあと同様にオーケストラも出る。合唱団とオーケストラが整然と並んだところで、四人のソリスト、指揮者という順に登場する。

大きな拍手が沸き上がる。

 ソリストと指揮者が所定の位置に納まると拍手は止み、一瞬たとえようのない静寂が会場を包む。

 私の体内に、突然予期しない緊張感がめぐって来た。

 


 

(6)本番と将来の選択

 

 舞台上にいる私の存在は、数十名に及ぶオーケストラ団員の中の単なる一員でしかないが、あたかも自分の下手くそな音だけが聴衆に聴こえてしまうのではないかという錯覚にとらわれるのであった。

 私はこの時、音楽会というものは決して気楽な気持ちでは臨めないことを身に染みて痛感したのである。体は硬直し、思うように右手や左手が動いてくれない。何もかもが自分の意思に反するのであった。

 あれほど練習したのに、

「なんてこった!」

 と自分に言い聞かせながら、必死に左手の指を弦に押し当て、尚且つ右手の弓を安定させて弾き出そうとするのであるが、レシタティーヴォの第一音目のA(ラ)の音が定まらず、ひっくり返ってしまうのだ。そしてそのまましどろもどろとなり、一連のレシタティーヴォはまったく弾けずに過ぎてしまったのである。

 私がようやく正気を取り戻し、幾らかでも弾けるようになったのは、やはり実質的にたくさん復習ったことのある『歓びの歌』の一節からだったように思うが、それもタカが知れている。まともに最後まで弾いたと言う実感は残ってはいない。

 

 片や、隣で弾いていたお姉さんはと言うと、本番前に弁当も喉に通らないほど緊張していたはずなのに、けっこう沈着冷静、終始平然と弾いているように見えるのであった。

「流石!」

 と、思うのであった。

 私とお姉さんは、わずか一年程度の経験差しかない。また、高校二年生と大学二年生とは言っても然したる年齢差があるわけではない。ところが、本番の演奏においては一目瞭然、雲泥の差となったのである。

 

 演奏会は大成功だった。

 聴衆の拍手は、音楽会が始まる前のそれとは比べ物にならないほど盛大であった。中には立ち上がって拍手をしている人もいた。

 指揮者は、客席側に向いて何度もお辞儀をし、四人のソリストと順次握手をし、そして私たちの方へ向き直るとオーケストラの団員に立ち上がるよう合図をする。合唱団は元から立って歌っていたので、皆に向けて手をかざしたり拍手を送ったりするのだった。

 

 ソリストと指揮者が舞台袖に引っ込むと、即座にオーケストラの団員は着席する。

 聴衆の拍手は尚も続いている。指揮者はそれに応えなければならないのだ。

 指揮者とソリストは、下手(しもて)と舞台中央の間を幾度も行き来し、そのつど私たちを立たせるのだった。

 全員が感慨無量となった。私もその一人であったが、心の中には悔やみきれないものが残っていた。もう懲り懲りというような、少し身を引くような複雑な心境に見舞われていたのであった。

 

「お疲れさま~!」

「お疲れさまでした~!」

 団員同士、舞台袖で口々に声を掛け合っていた。

「よお、どうだった?うまく弾けたか?」

 少しばかり沈んだ心持ちでいた私の様子を見て取ったか、カザルスが聞いて来た。

 私が返事に困っていると、

「なんのなんの、初めてなんだから・・・

気にするこたあないさ。つぎがある、つぎが・・・」

 と私を励ましてくれるのだった。

 お姉さんも、一緒に楽器を片付けながら、

「良く頑張ったわね!」

 と優しい声を掛けてくれた。

 

 その日は、それで解散となった。

 後日、学校の近くにある先輩たちの行きつけの居酒屋で打ち上げが催された。大学生の集まりなのだから、当然酒宴である。私も呼ばれていたので参加した。

 内緒の話だが、実は私も釣られて飲んだのである。飲ませる方も飲ませる方だが、飲む方も飲む方である。高校生の分際で・・・となる。

 しかし打ち上げにはオーケストラのOBもいて、OBの中には高等部の先生もいた。常任指揮者は大学の音楽講師だったからして公認という成り行きである。

 その時の写真が未だアルバムに貼ってある。酒に酔った私の顔がはっきりと写っている。何という高校生だ。

 

 玉川学園は、幼稚部から大学まで一貫教育を行っていた。自由を重んじ、各人の自発的な活動を奨励していた。学科の単位を落とせば当然留年もあったが、とにかく一筋の道を突き進む熱意の程を生徒たちに求めていた。善悪を一般的通念では計らなかった。 

 当時の学園長の教育理念は素晴らしかった。広大な山々の敷地内に校舎が四方八方に点在していた。これも学園長の理念に基づいて建設されたのである。

 たとえば高等部では、国語の教室、理科の教室、数学の教室などばらばらに設置されているので、科目が換わるごとにスリッパ持参で戸外を移動するのであった。

 外を歩けば、牛が寝転がっていたりニワトリが徘徊していた。今はもうすっかり変わってしまっていることだろう。四十年以上も昔のことである。

 

 私は性懲りもなくチェロを続け、熱心に大学オーケストラに通った。団員たちは皆、以前にも増して親しく付き合ってくれるようになった。

 高校三年生になり、二回目の第九も経験し、前回より遙かに上手に弾けるようになっていた。

 カザルスは卒業し北海道へ帰郷して材木屋を継承したが、第九の本番となると駆けつけた。

 初恋のお姉さんは大学三年生、だんだんと綺麗になって行くようであった。私の思いは一方的に募って行くのだったが、進展のよすがはわずかも得られなかった。オーケストラで共に演奏するという程度の交際で、お姉さんが大学を卒業すると同時に断ち切れてしまった次第である。

 そして私も高校卒業であった。

 

 チェロは、いつしか私にとって掛け替えのないものとなっていた。

 大学への進学に際し、私の心は揺れ動くのであった。

 


 

(7)父への説得

 

 私がこの学園に入ったのには理由がある。もちろん私の意志ではない。成績が芳しくない私に、学校の選択肢など脳裏にあるはずがなかった。飽くまでも父の考えであった。

 父は、予てよりこの学園を設立した学園長の教育理念に深く共感しており、私の入学を切望していたのであった。一貫教育を踏まえ、自由性を兼ね備えた「全人教育」というのがこの学園のモットーであった。

 もしも父が、もっと早くにこの学校の存在を認知していたなら、恐らく私は中学校から押し込まれていたに違いない。いや小学校、いや幼稚園だったかも知れない。しかし、理由はそれだけではなかった。

 二つ目の理由を述べる前に、若干の説明を付け加えて置く必要があろう。

 

 私の祖父は、その頃すでにシルバー精工という編機会社を創立していた。広島で生まれ、若い時から針の行商を営み苦労を重ねてきたそうである。後に上京してミシン工場を手掛けたのが好転し、最終的に編機会社を築いたのである。時代の流れに乗り、事業は大成功を収めたのであった。

 父はその祖父の直系長男であるので、社会通念からすれば祖父の会社を後継しなければならない立場にあったのだが、絵描きになりたい希望があったのでそれを蹴ったので、いわゆる私にお鉢が回って来たわけである。

 第二の理由とは、いわゆる私に祖父の会社を継がせることであった。祖父は、父のそうした遁辞のような考え方に屈してしまい、ついに私に対し全面的な期待を掛けるようになってしまったのである。

 

 玉川学園の大学部には経営工学科というのがあった。つまり、私はそこへ自動的に放り込まれる筋書であった。実に安易な流れであったが、私はそれでも構わないとずっと思っていた。高等部に入った時点で、そう言う運命であることを父から得々と聞かされて来たのであるから・・・。

 ところが卒業寸前になって、私は豹変したのである。

 

「父さん、僕、チェリストになる。」

 一家団欒の食卓について、ほろ酔いになっている父に、私は話しかけた。

「なんだと、チェリストになるだと、とんでもない!」

 父は急に目を吊り上げて怒鳴った。母はその怒鳴り声に驚き、腰が少し浮き上がったようだった。

 続けざまに父は言う。

「そんな考えは止めてしまえ。お前は爺さんの会社を継ぐことになっているんだ。音楽なんぞやって喰っていけるわけがないんだ。」

 母は終始無言であった。その時の母の心中は如何許りだったか、父に反論したことなど先ずもってない母であった。

 一喝を受けた私は、食事も喉に通らなくなり、箸を捨てて二階へ駆け上がってしまった。

それから数日は、互いにだんまり状態がつづいた。

 

 父も芸術家の端くれであった。芸術分野への志向には理解を示していたし、様々な芸術論を話してくれることもあった。またクラシック音楽の愛好家でもあり、若い頃にはSPレコードを蒐集していたぐらいで、熱烈なフルウトヴェングラーのファンであった。

ついでだから言うが、その収集品は、父が第二次世界大戦で戦地へ赴いている間に、日本の警察が敵勢音楽であるとしてすべて没収してしまったのだという。

 聞けばレコードはすべてドイツ盤であったと言うから、何とも滑稽な話である。モーツアルト、ベートーヴェン、ブラームスは、日本の敵と言うことか・・・。果たしてドイツと日本は同盟国であったはずである。

 話が横道に逸れた。

 

 そう言えばかって、もちろんチェロを始める前のことだが、私は父に「詩人になりたい」と話したことがあった。

 父はその時、

「詩を嗜むことはすばらしいことだが、純粋に詩を書いて飯を喰うことは難しい。一字なんぼの世界だし、詩人はみんな他に職を持ちながら詩作しているんだ。」

 と、やさしく諭すように話してくれた。

 何故か私は素直に納得し、それについてはただ認識を改めるに留まったのであったが、しかしここに来て、私のチェリストになりたいという決意は断固変わらなかった。

 

 自分の言語能力では絶対に父を説得できないと悟った私は、オーケストラのOBであった高等部の労作(当時は花壇作りや畑作りをする授業があり、それを労作と言った)の先生(彼は昔ティンパニーを叩いていた)に相談を持ち掛けたのであった。

 労作の先生は、幸いにも私の悩みを受け止め、大学部で音楽科の講師をしているあのリーゼントカットの常任指揮者にも相談してみようということになった。そして直ぐさま音楽科の講師室へと足を運んだのである。有り難いことに、常任指揮者も理解を示してくれたのであった。

 労作の先生は、常任指揮者の意見を確認するや否や立ち上がり、事務室へ行ってさっそく父に電話を入れたのである。

 彼がどんな風に父と話をしたのか私には知るよしもないが、拒絶されることはなかったようだ。何ともうまく面会の約束を取り付けたものだと、私にしてみれば不思議な感触であった。

 その日の内にである。労作の先生と常任指揮者は、私の下校に便乗し我が家を訪問した。

 

「お忙しいところ恐れ入ります。憲君のことでちょっとお話をと・・・お時間頂きありがとうございました。」

 労作の先生は、常任指揮者と共に通り一遍の挨拶を済ませた後、即座に切り出した。

「はあ、なんでしょう?」

 父はとぼけた口調で言った。

「憲君がどうしてもチェリストになりたいと言っているのですが、やらさせてみては如何でしょう? お父さんのお気持ちは、憲君から事情を聞いて良く解りますが・・・」

 労作の先生は淡々と父を口説き始めていた。私は固唾を飲んで聞いているしかなかった。

「いや、反対です。息子の進むべき道は決まっているんですから・・・。第一、チェロを始めて二年足らず、碌に弾けちゃあいない。才能のサの字もわかりゃしない。」

 と父は言った。

「憲君の才能は私が保証します。もちろんまだ初心の状態です。でも、むしろたった二年でここまで弾けるようになったのは出色だと思います。」

 透かさず常任指揮者が言葉を投げ掛けた。

「しかし音大受験はどうすると言うのかね。すでに時期的に受験は迫っている。間に合うわけがない。」

 確かに父のいうとおりであった。

「一年見送って、浪人すれば好いんです。それでもけっして遅くはありません。一年掛けて専門家の指導を受けるんです。これから本格的な勉強に入るんです。」

 常任指揮者の見解を聞いた父は、しばし腕を組んで黙していたが、

「そうですか。それでは、イチかバチかやらせて見ますか。」

 ついに発せられた父の言葉である。私はその言葉に感動し涙がでるほど嬉しかったのであった。

 改めて思えば、私がチェリストになりたいと言い出してからのだんまり状態の中で、もしかしたら父の心は決まっていたのかも知れない。

 傍にいて終始無言だった母も喜び、ようやく笑顔を見せたのだった。

 

 その夜、父と労作の先生と常任指揮者は祝宴となり遅くまで飲んだ。私も少しばかりご相伴にあずかった。

 常任指揮者は、私がこれからどのように勉強を進めて行ったら良いかなど詳しく説明しつつ、且つ私を励ましてくれるのだった。

 部屋中に笑いが満ち溢れた。

 

 後日、父は祖父を訪ねた。

 今度は父が祖父を説得する番であった。恐らく容易なことではなかったに違いない。また祖父のがっかりした顔も目に浮かぶようであった。

 人間には運命と言うものがある。この運命をどのように捉えるかについては、計り知れないものがある。もしも、すべてが神の思し召しであるなら、神に従うしかあるまい。

 

 祖父の亡き後、編機会社は直属の部下であった他人の手に渡り、いずれ我が一族とは無縁となった。

 


 

(8)チェリストへの道

 

 多くの犠牲を顧みず、私はチェリストの道を目指し歩むことになった。そして一年間の浪人生活を前提に受験勉強は開始された。

 

常任指揮者の手づるで国立(くにたち)音楽大学チェロ科の教授を紹介してもらった。日本のチェロ界では草分け的存在と謳われた大村卯七教授である。

 

当時のチェロ界の大御所といえば、大村卯七と斉藤秀雄であった。二人ともドイツでフォイヤーマンに師事したチェリストであったが、音楽的捉え方が違い生き方も違った。手短に言えば、大村卯七は演奏家肌で、斉藤秀雄は教育者肌であった。

 後々の結果論を見ると、斉藤秀雄は多くの有名人を世に送り出したが、大村卯七はこれといった人材を育成してはいない。斉藤秀雄は徹底的に技術を叩き込んだが、大村卯七は音楽を飽くまでも心の所産とし音楽の感じ方や表現を教えた。

 どちらを良しとするかは、それぞれの見解に委ねるしかなかろう。

 

 音大受験では、専門以外にも必須のテスト科目がある。ピアノ、ソルフェージュ、聴音、楽典、いずれも音楽に必要不可欠な科目である。大学によっては、英語、国語、社会、数学などの一般学科もテストされる場合がある。因みに国立音大では、英語と国語だけであった。

 私はそういう受験態勢を極めて不本意に思ったものであるが、日本におけるシステムなのだから仕方がない。決まりを避けることは不可能である。

 

 チェロについては、毎日欠かさず六時間は復習う。そしてその残りの時間に他の学科の勉強を差し込むのである。時間が幾らあっても足りないという状況で、まさに苛酷スケジュールであった。もしやこの初めての浪人生活は、私の人生の中で最もまじめな日々だったかも知れない。

 

 先ずは一年間、私は必死の思いで勉強した。しかし、第一回目の受験は失敗に終わったのである。実技については辛うじて合格点に達していたのだが、一般学科の成績が極めて悪かったのであった。もともと振るわないところへ持ってきて、初めての科目が多すぎたせいもある。言い訳でしかないが、ほとんどがゼロ・スタート。専門のチェロですら本格的な指導を受けたのは高校を卒業する寸前だったし、誰が見ても無理は当たり前であった。

 不合格通知が届き、父から何かしらの苦言を聞かされるかと覚悟したが、父は何もいわなかった。

 

 とにかくもう一年間、浪人生活に命を懸けるしかないのであった。自ら選んだ道である。挫折などは許されない。実技を含め、音楽分野に関わる科目についてはある程度ものにしていたので、二年目は一般学科に視点を置き予備校へ行くことにした。悪足掻きのようでもあったが、行かないよりはマシと言う考え方であった。

 

 さて、二回目の受験となった。予備校へも通ったし、万全であるかのように見えたが・・・。

 実技の成績は、その年の最高点を取ったのだが、やはり学科で引っ掛かってしまった。 後で聞いた話だが、大村教授が合格者選考会の場で、私の演奏について絶賛の声を上げたという。普段は寡黙で、教授会では余り自分の意見を主張することのなかった先生が、この時ばかりは異常に興奮したそうで、他の教授たちを唖然とさせたという。

 実は、それには訳があった。私の全体的なテストの成績は、一回目ほど悪くなかったらしい。ところが、国語のテストで文学の教授からクレームがついてしまったのである。引っ掛かったのは、四文字熟語の問題にあった。つまり「呉越同舟」とか「琴瑟相和」というような漢文問題において、答えを簡略化して回答欄に書き込めば良いものを、私がつい歴史的由来まで書きたくなって解答用紙の裏面に及んで綿々と綴ったことが、文学の教授の逆鱗に触れてしまったのだそうである。

 私にしてみれば、ほんの遊び心のつもりであったが、結果的に自意識過剰だったことになる。文学の教授には余程カチンと来たらしい。私を徹底的に受け入れなかったと言う。

 

大村先生の異常な興奮とは、取りも直さず文学の教授との激突によるものであった。

「芸術家には、それぐらいの気概が必要である。この才能を見捨ててはならない!」

 と言ったそうである。

 大村教授の最終的な声明が論議を終結させ、辛うじて私は合格となった。

 

~追記~

 

 ここで一つ、是非とも追記しておきたいことがある。

受験中に知り合った私と全く同い年のI君がいる。受験の場においてはまさしくライバルであり、幾ばくか言葉を交わした程度に過ぎなかった。それゆえその時はまさか後々親友関係に及ぶとは露とも思っていなかったのだが、彼とは偶然にも同時合格で同級生となり、私が国立音楽大学を中退し留学するまで親しく付き合い、無論その後も日本とヨーロッパの遥かな時空を超えて文通が続けられ、帰国後も更なる友好を交えていたが、ある時予期せぬことが原因で分断を余儀なくされてしまった。以来、友好は途絶えていた。

 ところが予期せずして、先般邂逅の機会が得られ、かつての友好関係を再び取り戻すことが出来たのである。まさにこの邂逅は、音楽界に幻滅を感じ引退宣言を発表していた私の心を揺さぶり復活へと導いてくれたのである。

回想録の改訂を思い立ち(2017年7月現在)、これを完結させるためには彼の存在と関わり合いについて書くことは必要不可欠であると考えている。文面を書き直しつつ、恐らく随時シーンが挿入されることになろうが、むしろ回想録の最後(現状下)において更なる追記を施したい。 

 

***

 

入学後、文学以外の幾つかの授業にはしばらくは出席していたのだが、何一つとして興味が湧く講義に巡り合えず、段々とサボりがちになった。

 しかし大村教授のレッスンは別格で、日毎に面白さが増すようだった。いずれ学校の授業だけでは物足りなくなり、浪人の時のように自宅まで押し掛けて行ったのである。

 

それから、また新たな体験が加わった。

 私が教授宅に伺うと、必ず奥様が玄関で出迎えてくれた。奥様は生粋のドイツ人だったが、優しくて気品があった。

 名前は忘れたが、黒いロングヘアーのミニチュアダックがいて、いつも奥様の後について現れ、いつの間にか私が玄関を上がると一緒になってレッスン室へ入って来るようになった。私を気に入ったのだろうか、私がチェロを弾いている間中、私の足下にへばり付いて寝ていた。

 

先生はと言うと、レッスン中はこれまたロッキングチェアに揺られてほとんどの場合寝ていた。確かに御老体であったが、入学前と後とでは大違いの風景となった。

「先生、一楽章を弾き終わりました!」

 たとえば私がそんな風に声を掛けると、

「おお、そうか・・・ま、よかろう!」

 と寝ぼけたように終わるか、或いは突然目を見開いて、

「そこのところは、もっと幽霊のように弾くんだ!」

 と、時々抽象的な言い回しをするので戸惑うこともあった。

 先生の言葉の一つ一つが一体どのような意味をもって発せられたものなのか、当時は解らないことが多かったが、後になって気づき納得するのであった。

 

もう一つ特別な時間があった。

 毎回ではなかったが、先生はチェロのレッスンが終わると私を近所の飲み屋へ連れて行ってくれるのであった。いわゆる酒のレッスンとでも言おうか。

「先生、いらっしゃ~い!」

 暖簾を潜って入ると、おかみさんが愛想良く迎える。七、八人が座ればで満席になってしまうほどの小さな一杯飲み屋であった。カウンターに止まり木しかない、いわゆる昔ながらの赤提灯である。

 先生は魚の干物とつけものをつまみに飲むことが多かった。私の酒好きはそこから始まったのだろうか。酒はもともと好きだったが、本格的な酒の味わい方や楽しみ方は先生から教わったような気がする。

 チェロの師匠というよりも酒の師匠・・・ってか。

 

まだ在学一年に満たない頃のことであった。

 大村教授が出し抜けに言った。

 

「瀬越君!そろそろ留学したまえ!」

 


 

(9)Tとの出会い

 

 大村卯七教授からもたらされた留学の話は、いよいよ新たな波乱を巻き起こすことになる。

その一連の顛末を述べる前に、これまで省略してきた部分を幾らかでも補足して置かなければならない。実はこの部分を省略してしまうと、話が正しく展開しないのである。

 

正確な時期は忘れてしまった。確か私が浪人を始めてしばらく経ってからのことだったと思う。Tが我が家に居候することになった。

 Tは私と同年で、大学部の児童心理学科の一年生であった。オーケストラに新入団員として入って来たのである。楽器はコントラバスであった。

 私が、浪人中も度々大学オケに顔を出していたので知り合うことになった次第である。体格が良く、私に比べればずっと大人びていた。父親を早くに亡くし苦労したようだ。

 そんな彼と、私はいつの間にか仲良しになった。同年代であることがそのきっかけとなったのであろうが、何かと話が合った。

 

彼は当初、三畳間ほどもないような何とも狭い一室を間借りして住んでいた。ある陶芸家の屋敷の離れに建っていたボロ長屋の一角である。そこは昔から玉川学園の大学生に提供されていたようだが、恐らく部屋代は相当安かったに違いない。

 私は良くそこを訪れ、二人の膝が重なるかと思うような狭さの中で、談論風発を交わした。

 いずれ我が家に招くようになり、普段ろくなものを食べていないということだったので、母が手料理を振る舞った。父と彼とは初対面から意気投合したようで、いやむしろ父が一方的に気に入ったと言うべきかも知れない。

「部屋は余っているから、ここに住んだらどうか?家賃などいらないので・・・」

 と父は彼に言った。

 彼が我が家に住むことに、いささかの不自然さもなかった。前にも書いた通り私は一人っ子だから、一つ屋根の下に人が大勢いる生活状況というものに大いに憧れていたのである。

 その昔、私がまだ小学生だった頃のことであった。後々仏画家となった内弟子がいて、その内弟子とは兄弟のように暮らしたことがあり、

そういう賑やかな一家団欒の趣きが再び味わえるということは、一人っ子の私にとっては万々歳なのであった。

 

ところで、こんなこともあった。冗談ではなく実際にあったことだから面白い。

我が家は、玉川学園駅から徒歩で二十分ぐらいの所にあり、駅を出ると直ぐに急勾配の坂となっていた。家へ辿り着くまでには一山を越えなければならない状況にあった。その辺りは実に山坂の多い土地であった。

 住まいは、父が自ら設計し製図を引いて建てた民芸風の木造家屋であった。そういう民芸風の家に住む、というかそういう家を建築することが父の長年の夢だったようである。

 

Tが我が家に居候するようになったのは、両親と私の三人家族がそこへ引っ越して来てまだ間もない頃のことであった。当然隣り近所との付き合いは浅かったわけであるから、隣人は我が家の家族構成を把握してはいなかった。

 彼は、真面目で品行方正な大学生で、休日ともなれば庭先で父や母と共に花壇の手入れなどをしていて、そういう光景がたびたび近所の人に見られていた。

 私はと言うとほとんど部屋に閉じこもって練習しているか、或いはレッスンのために都心へ出かけ家に居ない状態が多かったので、いつの間にか彼が当家の実の子息であると思われてしまったのである。

「お宅の息子さんは、本当に品行方正でご立派ですね。」

 ある時、母が隣りの人からそのように声を掛けられたという。もちろんそれはTのことである。

 当家における私の存在は、近隣には長い間まったく認識してもらえていなかったようで、事実を知ってもらうまでにはけっこう時間が掛かったようだった。

 

Tには、二つ年下の妹と四つ年下の弟がいた。父親が早くに亡くなったので彼が父親代わりの立場に置かれていた。

 生まれは富山である。実家は、新潟寄りのとある海辺の小さな村里にあった。親戚筋は基本的に教育者で、彼の父親も小学校の教諭であった。また祖父母を中心とし、一家で農業も営んでいた。

 

ある夏の日である。私は、生まれて初めて一人旅を実践した。特急などにはいっさい乗らず、長時間のんびりと汽車に揺られながらの旅であった。

 Tが夏休みで帰省すると言うので、彼を追って出掛けることにしたのだ。第一の目的は彼の実家を訪ねることであったが、せっかくの機会と言うことで、十日間の北陸路の旅となった。

 東京を発ち、Tの実家がある富山へは直行せずに、先ずは飛騨高山で下車。小京都とも言われる古風な街並を散策し、さらに茅葺き屋根の民家が建ち並んでいる白川郷を歩いた。

 私はそこで一泊し、翌日国境を越えて富山へ入りTの実家を訪ねた。

 旧家である。太い大黒柱や梁で造られた立派な屋敷であった。築約百年であるからして、

立て付けに多少の難はあったが、飛騨高山で見学したそれのようにすべての柱や建具はつややかに黒光りしていた。

 彼の母親と妹と弟、そして祖父・祖母がいた。一家総出で私を出迎えてくれた。温かい歓迎であった。

 夕餉となれば、ふんだんの海の幸と山の幸の料理でもてなされた。片側はすぐ海であり、片側は山に近かった。毎日が楽しみの食卓であった。

 

確か滞在二日目であったと思う。いっときだけ、その家の人たちがそれぞれにどこかへ出掛けてしまい、彼の妹だけが残ったことがあった。私はあてがわれた座敷で一人暢気に物思いに耽りながら詩篇なんぞをしたためていたのだが、そこに突然Tの妹が現れた。

「何もないんですけど・・・お昼ご飯です。」

 Tの妹が、開けっ放しの襖のところに立っていた。

「みんな用事ができてしまって、いないんです。」

 と、照れ臭そうに言いながら座敷に入って来ると、握り飯と味噌汁を載せた小型の丸盆を差し出した。そして、そのまま黙って行ってしまった。

 日本女性としては少しばかり背が高い方であるが、母親に似て美形であり、明るさと清楚さを兼ね備えていた。彼女とは毎日顔を合わせていながら、滞在中まともに会話を交わしたことはなかった。

 私は、彼女が運んで来た握り飯と味噌汁をさっそく食したが、これが殊のほか美味かったのである。海苔の付き具合、握り具合、塩加減のバランスは絶妙であった。タカが握り飯と見くびるものではなかった。もちろん味噌汁も見事な味わいであった。

 私にとって、それも忘れられない記憶の一つとなったのである。

 

三、四日が経ち、私としてはもっと長く滞在していたい心境であったが、次の予約を入れていたので旅を続けなければならなかった。

 私は、後ろ髪を引かれる思いでTの実家を去るのであった。

 

北陸路を転々とし、島根の出雲大社まで行き、そこから一気に東京へ舞い戻った。

 間もなく夏休みも終わり、Tも我が家へ戻って来た。

 


 

(10)結婚と渡欧

 

 Tが我が家の居候となったその翌年の春のことであった。忌まわしい出来事が起こった。Tの母親が不慮の事故で亡くなったのだ。

 運命はかくも不平等なのかと・・・私も悲しみに打ち震えた。

 

《つかの間に友は相けむや母のみめ潜まりつれど野辺のけぶりに》

《ほのかなる荒磯の里に在りし日の憶い出でもうき吾が友の母よ》

 私は、せめてもの追悼の言葉をTに送った。友の悲しみを思い遣り、鎮魂の意を込めてうたった。

 

 Tが、妹を連れてはじめて我が家を訪れたのは、実家で母親の葬儀を終え東京へ戻って来た時のことであった。

 妹は、千葉県にある某短期大学に在学していた。学生寮に寄宿していたので、そこへ向かう途中、Tに連れられて我が家に立ち寄ったのであった。

 両親は、Tが我が家を訪れた時と同じように、Tの妹を一目で気に入ったようであった。 早くに父親を亡くし、そして母親をも亡くした今、その兄妹にとっては想像を絶する悲しみであったに相違ない。それにも拘わらず、けなげにも精一杯の健やかさを見せ、切ないほどに優しさを湛えている彼女の姿に両親は心打たれたようであった。

私が彼女に会ったのはそれが二度目、北陸路の旅以来のことであった。

 

 さて、大村先生の口から突然に発せられた留学の話によって、我が家はてんやわんやとなっていた。

 思った通り父が誰よりも先に猛反対をしたわけだが、それは留学そのものを許さないと言うものではなかった。

 父にしてみれば、

「やっとの思いで音大に入って、まだ一年足らずしか経っていない。そこへ持ってきて留学とは余りにもはや過ぎる。」

 と言うものだったのである。

「せめて音大を卒業してから・・・」

 と言うのが父の意見であった。

 

 確かに父の見解は順当なものであった。留学したとしてもいずれは帰国し日本で仕事をしなければならない。それを考えれば、その時に苦労することが目に見えるからである。

 しかし私にとって、留学は極めて興味深い話であった。若さゆえであろう、私には後々のことまで推量する構えなどは微塵もなく、徹頭徹尾父の意見に屈するわけにはいかなかった。私には反論のみがあった。

 如何に父を説得すべきか考えあぐねていた矢先、大村先生は父の説得にあたってくれたのであった。私の人生は、有難いことに恰も多くの人の力によって導かれているようであった。高校時代にチェリストになりたいと嘆願した時も然り、そして今回の留学の一件も然りである。

 

 父と大村先生との間で激しい問答が行われた。

 父は、

「せめて音大を卒業してから・・・」

 と言い。

 大村先生は、

「今こそ留学させるべき・・・」

 と言う。

 二人の意見はぶつかり合うのだった。

 

「このまま日本にいて、無駄な知恵や知識を植え付けない方が良い。本物の西洋音楽を純粋に吸収できるのは若い内である。今こそ行かせるべきだ!」

 大村先生は、強力に主張した。そしてその言葉に、父はついに納得せざるを得なかったようである。しかし父は、大村先生の意見を受け入れはしたものの、結論として一つの条件を持ち出して来たのだ。

「青い目の嫁さんを連れて帰られては困る。結婚させて、嫁さんと一緒に行かせる。」

 と言うものであった。

 つまり、結婚しなければ留学はあり得ないと言う状況に追い込まれてしまったのである。

「さてどうしたものか・・・」

 私は、はたまた考えあぐねるばかりあった。

 

 その時、父の脳裡にはすでに一つの算段がまとまっていたのだ。つまりTの妹を私の嫁さんにすることであった。而して父は、いつの間にかTと話を進めており密約を交わしていたのだ。

最終的には、暗黙の了解と言うことになってしまうのだった。

 

 当然私の側にも色々な言い分があったわけだが、留学したい一心が先行していたので、私にしてみれば何でもござれと言うような投げ遣りな態度を示すより方法がなかったのだが、実を言うと、私は父のそうした強引な決定に内心ほっとしたのであった。

 私の心の中に、時折ふとあの夏の日の記憶が甦って来る。いつしか彼女に思いを寄せていることに気づいていたのだ。しかし交際もままならず、私に彼女の気持ちを確認する術もなかった。

 

 後になってTに聞いたことだが、父の結婚話には殺気すら感じるほどの勢いがあり、威圧的であったそうだ。簡単に断れるような状況ではなかったと言う。父にしてみれば必死だったのだろうが、Tにしてみればかなり辛い状況に追い込まれたことになる。

 果たしてTは、そう言う複雑な心境の中で、どのような言葉をもって妹に結婚話を持ち出したのだろうか・・・。

 幸いにして、事はトントン拍子に運んだのではあったが・・・。

 

 私たちの交際が始まったのは、留学前のほんの数ヶ月であった。二人は信じられない速さで親しくなって行った。

 そして、彼女が短大を卒業するや否や、待ってましたとばかりに婚約の儀が執り行われた。彼女とTにおいては両親を亡くしていたので、せめて式は富山の実家でということになった。これも父の配慮であった。

 

 短い交際の日々の中で、彼女が何か用事ができて帰省すれば、私もそのつど追っかけて行くという有り様であった。

 五月のある日、二人で山を散策し「すみれ」を摘んだ思い出もある。

 そして六月、結婚式となった。この場合も、当家親族一同が富山へ出向いたのであった。もちろんI君を含む親しい友人たちもわざわざ東京から訪れ列席してくれた。結婚式と披露宴を富山で行い、更に東京では祖父の会社の関係者も招いて、帝国ホテルにて披露宴だけ盛大に行った。

 何しろ電撃結婚であった。

 

 私は国立音楽大学に退学届けを提出した。たった一年足らずの在学であった。九月の渡欧に向け、二人は準備に取り掛かった。目的地はウィーンだったので、ドイツ語会話学校にも通った。しかし二ヶ月余りで何が出来よう、単なる気休めでしかなかった。

 

 さて、いよいよ渡欧である。私が二十二歳、家内が二十歳、まさしく若い身空である。無事現地へ到着したとしても、会話がままならない欠点と、右も左も分からない弱点を抱えていた。実に頼りない話である。

それを察し、父は同行者を確保してくれた。その判断と配慮に私たちは助けられることになる。一週間の期限付きであったが、ウィーンを周知しドイツ語に堪能な人を同行させてくれたのであった。

 父の思い遣り、そして更なる祖父の金銭的援助があればこその渡欧であったことを実感するのであった。

 

 私たちは沢山の親戚縁者とI君を含む友人たちに見送られ、羽田空港を飛び立った。

 


  

(11)出発

 

 ふとしたきっかけで始めたチェロであったが、その時はまさかプロになるとは思ってもいなかった。余り好きではない勉強から回避するための口実だったような気がしないでもないが、いつの間にかこの道に填ってしまった。

 以来4年が経ち、ゆくりなくも渡欧にまでこじつける結果となってしまった。特別優秀だったわけではないから、単に勢いで進んで来た感じがする。それゆえ正直言って内心忸怩たるものがあった。

 

 私たちが乗った飛行機は、すでに上空を飛んでる。

「ああ、もう後戻りはできない!」

 と思った。

 

 スカンジナビヤ航空便(SAS)であった。私も家内も、それが生まれて初めての飛行だったから、不安感や恐怖感はやむを得まい。巨大物体が空を飛ぶというイメージに付いて行けない感覚で、始めの内は緊張感が極限に達するほどであったが、人間の順応性というのは凄いものだ。徐々に慣れて行くのだから不思議である。開き直るというのではなさそうだ。いずれ緊張感が解きほぐれてくれば、それは次第に快適感へと変化する。機内での食事は大いなる楽しみとなった。

 食事は、飛行中何度か振舞われるわけだが、わけても『ベーコン巻きステーキ』は格別であった。当時、SASの機内食は他社のそれに比べダントツに良かったそうである。そのステーキの味は、今も尚しっかりと記憶にとどめている。

 エコノミークラスであったが、座席もゆったりしていたような気がする。このような豪華な体験は、後にも先にもこれ一回切りであった。四十年余り前の航空運賃は、エコノミークラスであっても極めて高額であった。

 

 私たちがウィーンに到着したのは、離陸してから二十数時間後であった。東京ではまだ少し蒸し暑さを感じていたのに、ウィーンではもう肌寒く、すっかり秋の風情であった。屋外に立ち、初めて吸い込んだ外国の空気には殊のほか感動したが、もし同行者無しの二人旅だったとしたら、そんな長閑な感懐に浸っている余裕などなかったに違いない。私たち二人は、同行者の言うままタクシーに乗り、大村教授を通じて事前に紹介されていた下宿へと向かった。

 

 下宿はウィーンの二区にあり、中心の一区からドナウ川を渡って行ったところにあった。

近所には、ウイーン少年合唱団の寄宿舎が建つアウガルテン公園や、十五分ほど歩けばプラターという素敵な遊園地もあった。なかなかに環境の良い住宅地であった。

 居住空間は、いわゆる日本でいうマンション(現地ではヴォーヌンクという)である。そして家主が持ち家として所有している二軒分のヴォーヌンクの内の一軒を提供してもらったのであった。家具付きの2LDKで各室がかなり広く、私たちには贅沢過ぎる住まいであった。

 

 家主は、生粋のウィーンっ子で職業は弁護士であった。私たちにとって何より幸いだったのは、家主の奥様が日本人だったことである。奥様は声楽家であった。私たちが下宿を訪れた際、玄関先で出迎えてくれたのは奥様だった。一見して随分と勝気そうな性格と見て取れたが、それよりも何より私たちがどれほど安堵したことか・・・。見知らぬ外国へやって来て、共通語で会話ができる人が身近にいるということがどれほど有り難いことか、実感するのであった。

 

 その晩、家主が一家揃って歓迎の晩餐会を開いてくれた。真面目そうな優しいご亭主、活発な奥様、そして三歳になるやんちゃぼうずがいた。明るく和やかな一家であった。私たち夫婦は、更なる安堵感を覚えた。

 

 翌日、同行者に導かれウィーン国立音楽アカデミーへ赴いた。(現在はウィーン国立音楽大学と呼んでいるかも知れない。)リッヒアルト・クロチャック教授との面会である。

 私たちが教授の部屋を訪れた時、丁度レッスン中であった。部屋の中からチェロの音が聴こえてきた。同行者が構わずドアをノックすると教授が現れ、無言で合図をした。部屋の片隅に椅子が整然と並んでいるのが目に入る。私たちは教授の指示通り椅子に腰掛け、しばし見学する形となった。

 

 クロチャック教授は、ビア樽のような体型で七十近い高齢であったが、とても元気そうだった。大村教授に良く似た体型というか、雰囲気も似ていた。気さくな人柄を感じさせ、不安はたちまち払拭された。

 

 三十畳ほどの広々としたレッスン室であった。私たちが静かにレッスンを聴講していた時、教授は突然生徒の楽器を取り上げたかと思うと、見るからに難しそうなパッセージを平然と弾き始めた。生徒に曲想の手本を示したわけである。しかしそれは、実に高齢とは思えない見事な演奏で、私にとってはまさに驚異であった。

 

 当時日本では、レッスンで教授が実際に演奏で模範を示すということは、余りなかったように思う。教授というのは現役演奏家を退いた人がなるのが通例で、すでに弾けなくなった人が教鞭を執っているわけだから、内容は推して知るべしである。

 私も幾度か芸大やその他の音大の教授にレッスンを受けたことがあったが、その場で模範演奏を聴いたことは一度もない。ヨーロッパでは、模範演奏できない演奏家は指導者として認められないのだ。

 

 さて、生徒のレッスンが終わり、クロチャック教授がやっと私たちに話しかけてきた。そして、一人一人に握手をし挨拶を交わした。

 私と家内は習った片言のドイツ語で「グーテンターク!」と言っただけだった。

それに対し教授は何やら言葉を投げかけてくれたのだが、私たちには解らず、

 同行者の通訳によると、

「ようこそ、ウィーンの私のもとへ!」

 と挨拶してくれたようだ。そして自己紹介を始めた。

 教授は、戸棚から何やら額縁に入った大きな写真を取り出し、

「これが私だ!」

 と指差した。

 一枚の色あせたウィーン・フィルの写真であった。その時点から遡って五十年以上も前に撮られた舞台上の記念写真である。燕尾服を着たヒゲのおっさんや頭髪の後退したおっさんたちが楽器を持ち正面を向いて立っている。写真の右手前列、チェロ・セクションの一番先頭に、指揮者と並んで一人の少年が写っている。これが若かりし日のクロチャック教授であった。

「私は十六歳の時からウィーン・フィルで首席をやってきた。」

 と言う。

  十六歳といえば、私がチェロを始めた歳である。またまた吃驚であった。

 

 これも後で聞いたエピソード・・・クロチャック教授も大の酒飲みだったとか。本番であろうとなかろうと、年がら年中酒を飲んでいたそうだ。

 ある時、カラヤンがウィーン・フィルでオペラを振った際、教授は本番中不覚にも居眠りをしてしまったらしい。もちろん酒のせいなのだが、その時そのオペラには大事なチェロのソロがあって、教授はそれをうっかり弾きそびれてしまったらしい。

 カラヤンは怒り心頭に発し、

「彼がいる限りウィーン・フィルは振らない!」

 と言ったそうだ。

 若かりし日のカラヤンであったが、激怒するのは当然であろう。宣言どおり、カラヤンはしばらくウィーン・フィルを振らなかったと言う。

 まあ、カラヤンのことは兎も角として、私にはむしろクロチャック教授の人間としての器の大きさに感服したものであった。まことに痛快な話である。

 その後間もなく、教授はオーケストラを引退し指導に専念したそうである。恐らくオーケストラではすでに定年の時期だったに違いない。しかし弾けなくなって辞めたのではなく、まだ演奏家としては現役であって、教授を務める傍らソロや室内楽においても依然として力量を発揮されたということである。「酒にはご用心!」である。

 

「今ここで、ぜひ君の音を聴きたい!」

 とクロチャック教授が私に対して演奏を求めた。

 ウィーンに到着したばかりなので準備もままならない状態であったが、一応楽器を持参していたので嫌と言うわけにもいかなので、私は弾いた。

 以前に大村先生から、

「そこは幽霊のように弾きたまえ・・・」

 と助言された曲、サンサーンスのチェロ協奏曲を私は弾いた。

「ありがとう!今日はその辺で結構!」

 教授は、大きなお腹の上に両手をのせるように組んで聴いていたが、一楽章が終わると直ぐさま声を発した。

 そして満面の笑みを湛え、

「君の音は、グロッケン・トーンだ!」

 と言った。

 同行者の通訳によれば、『グロッケン・トーン』とは『鐘の音』のことだそうで、悪い意味ではなさそうだし、多分褒められたのであろうとのことだった。

 私が相変わらずきょとんとした顔をしているので、教授は更なる言及を断念したように話を止め、次回のレッスン日を指示した。

 特に入学試験というものはなかった。その試し弾きが試験だったことになる。

 

 私たちはそのまま事務室へ赴き、入学手続きを済ませ、下宿へ戻った。

 


  

(12)ウィーンの生活とレッスン

 

 ウィーンでの新生活が始まった。 

 家主一家がもともと住まいとして併用していたスペースだったので、家具やキッチン道具など最低限の必需品は整っていたので大助かりであった。しかし、私たちにとって忽ち問題となるのは食材の買い出しであった。

 どこにどんな物が売られていると言うような、店舗の所在や内容については家主の奥様に教えてもらえるのだが、実際の買い物となれば自力で何とかしなければならない。同行者が滞在しているうちは外食でこと足りたが、彼が帰国してしまえば途端の悩みとなった。

 いやはやどうしたものか・・・ドイツ語は二人してとんと駄目である。良くもまあ、ドイツ語が解らずして来たものである。そして更に英語も覚束ない。しかし思案に暮れてばかりいても埒があかないので、心を決めるしかない。辞書を片手に、二人して買い物となった。

 

 先ずはスーパーマーケットである。システムは世界中どこも同じで、欲しい品物をカゴに入れてレジで精算すれば済むというもの。だが会計でもたつく。金銭感覚が身についていないのだからどうしようもない。

 すったもんだの挙げ句、持ち金を一通り手のひらに載せて差し出し、レジの人に必要分を取ってもらうと言うことになる。釣り銭をもらう場合もあるわけだが、とにかく相手を信用するしか方法がないのである。幸いなことに、一度も問題は起こったことはなかった。

 

 肉屋へ行く。ある程度のものはスーパーマーケットでも買えるが、各種の買い方を覚える必要があった。

 和独辞書で挽肉という言葉を探すとゲハックテスという風に出ている。

「ゲハックテス、ビッテ(ください)!」

 と店員に話しかける。

 しかし通じない。発音が悪いのだろうか・・・。

 結局、ガラス・ケースの商品を指差して

「ダス(これ)!」

 となる。

 同じドイツ語でも、ウィーンではゲハックテスとはいわずにファシールテスと言うのだ。このようなことが幾つもあった。オーストリアもドイツ語圏には違いないが、発音も含め随分と言葉の使い方が違う。

 

 さて、クロチャック教授の一回目のレッスン日がやってきた。私は再びレッスン室を訪れたのだったが、この時はしばしドアの前で躊躇ってしまった。

 ドアの向こうから、誰かが精力的に弾いている音が聞こえてくるのだ。教授の音ではないことぐらい察しが付く。学生には違いないが、何とも立派な演奏であった。

 私はドアをノックすることが出来ず、その場で立ち竦んでしまった。

しばらくして、室内が静かになったところを見計らって私はノックした。

 直ぐにドアが開いた。私の視界に現れたのは、一瞬日本人かと思ったが、中国人だった。

彼がドアを開けてくれたのだ。楽器を左手に持ち、ひょろっと立っていた。

「グーテンモルゲン(おはよう)!」

 と彼が微笑んで言った。

 私も同じ言葉を返して中へ入ると、教授も椅子から立ち上がり私に手を差し伸べて挨拶をし、その中国人留学生を私に紹介した。私たちは握手を交わした。

 彼は大変好感の持てる人物であった。そして前回ここに訪れた時にレッスンを受けていた学生に比べ遥かに上手であった。いったい教授のもとで何年ぐらい勉強しているのだろう、と私は関心を抱いた。そして更に自分のレベルの低さを痛感するのだった。

 

 私が、徐に楽器をケースから取り出していると、教授が何やら話しかけてきた。

 ところが、私には教授の言わんとしていることが全く解らない。私がきょとんとしていると、次に教授は中国人留学生に向かって話し掛けるのだった。同じ東洋人であるからして、もしや話が通じるのではないかと思ったらしい。

 中国人留学生は、ショルダーバックから紙と鉛筆を取り出し何やら書き始めた。そして書き終わると、私にそれを示した。そこには漢字が書かれてあった。一瞬、私はその漢字の羅列を見てドキッとしのであった。漢字とは言っても、当然日本語のそれとは少し異なる。しかし落ち着いて目を通してみると、幸いそれは私にも理解し得る範囲のものであった。

 かつて詩歌の勉強のために多少なりと漢文に親しんだことが、このような形で役に立つとは思ってもいなかった。人生、誠に不可解である。何とも奇妙な情景となった。

 中国人留学生のお蔭でクロチャック教授との意志の疎通が計られ、窮地を脱することができたのであった。

 

 教授が開口一番に私に伝えたかったことと言うのは、要約すると、私に音楽的才能はあるが基礎が出来ていないので、先ずはそれを徹底的にやらなければならないということであった。

 余りにもはっきりと言われたもので、正直私はショックを受けたのだが、しかしここに来てすでに二人の優秀な生徒を目の当たりにしていたし、それゆえクラスのレベルについても十分に把握できていたので、即座に納得するのであった。私は、教授の意見にすべからく従う覚悟をもって諒解した。といより、せざるを得なかったと言おうか。

 

 さっそく教授は、今後必須とすべきエチュード(練習曲)を走り書きでメモし、私に手渡した。そこにはこれまで一度もやったことのないエチュードの数々が書き出されていた。

 

「次回はこれを見てきなさい!」

 と、教授はメモの一番上に書かれた文字を指差して言った。

 

 本来、クロチャック教授は、低レベルの生徒は見ないのであった。教授のもとに来ている生徒は、ずっと以前に基礎を仕上げた者たちであった。もしかすると、私のような低レベルの生徒を見るのは、それが初めてだったのかも知れない。その上ドイツ語も覚束ない面倒な生徒であった。

 教授が、そのような私を受け入れてくれたのは、やはり大村教授の有力な推薦があったからに他なるまい。

 

 余談だが、中国人留学生が楽器を片付けて帰ろうとしていた時、彼が携えているチェロのケースが普通の物ではないことに私は気づいた。未だかつて見たこともないケースであった。

 それ以来ずっと気にしながらも、彼との会話もままならず数ヶ月が過ぎてしまった。私が片言のドイツ語を話せるようになったある日のこと、ついに彼と接触する機会を得たので、

「そのケースは、いったいどこで手に入れたのですか?」

 私は聞いた。

「桐の木材を使って、自分で組み立てたんです。」

 と彼が言う。

 白木を活かし、ニスを施した実に見事なチェロのケースであった。高級感が漂い、一見重そうに見えたが、実際の重さは通常のハードケースと何ら変わりはなかった。いや、むしろ軽かったかも知れない。世界でたった一つの、天下の逸品である。

 彼の器用さと心意気に深く感動したものであった。

 

 話をもとに戻そう。

 私の第一回目のレッスンは、中国人留学生が部屋を去った後に行われた。教授は、またもや戸棚を開けた。前回訪れた時には、そこから古いウィーン・フィルの写真を取り出したが、今度はボロボロになった楽譜を愛しむように取り出してきた。

 教授は、その楽譜を譜面台にそっと載せると、数ページをめくり指差した。

「この部分を弾いてみたまえ!」

 と言うのであった。

 それは以前、音大受験の際に少しばかり復習ったことのある、ハ長調の三オクターヴの音階であった。それは明らかに、一からのやり直しを意味していた。

 

 私のヨーロッパでの音楽修行は、まさにドレミファからの始まりであった。

 


 

(13)ザルツブルクとアヌシー

 

 ウィーン生活も半年ほどが過ぎれば、日常的な生活用語ぐらいは何とか話せるようになる。

当初は何かと不安がつきまとい何処へ行くにも二人一緒であったが、慣れるに従って単独行動も出来るようになる。家内も一人で買い物が出来るようになった。

若いということは、確かに新しい環境への順応が速い。しかし、身寄りもおらず真から頼れる者が周辺にいない外国生活では、とにかく夫婦の信頼関係だけが生きる手立てとなった。

 

 私たち夫婦は、ほぼ毎日のようにウィーンを散策した。街の隅々まで歩き廻れたわけではないが、それでもウィーンの風情は充分に堪能した。

 当時は、まだウィーン全体が古風な佇まいであった。わけても秋の街路樹はロマンの衝動を駆り立て、甃石路の上を黄金色の落ち葉が風に舞う様は絶品であった。

 冬の訪れは早い。いっきに雲が垂れ込め、どんよりとしてくる。本格的な冬となれば、凍て付くような風が吹く。

 ドナウ・カナール(ドナウ川に架かる橋)に差し掛かると、マイナス二十度の寒さに凍え上がる。一回りして帰宅してみれば、顔中に寒冷じんま疹が浮き出るほどであった。

 

 四月頃から徐々に雲が動き始め、明るさが見え隠れする。そして五月になると、空は瞬時にして晴れ渡り、いっせいに花盛りとなる。それは奇跡の変容であり、毎年深く感動させられた。

 

 ヨーロッパにはたくさんの《五月の詩》が残されている。私も少年時代にそれらの多くを読みあさり、しばし想像の世界に浸ったものだが、実際の光景を目の当たりにした時の感動はひとしおであった。

日本のそれとはまったく異なる、実に開放的な歓びに満ちた感触であった。長く暗い日々を堪えぬいた街が、一挙に歓びの楽園と化すのだ。

 アウガルテン公園の美しさ、穏やかさ。プラター遊園地の愉しさ、和やかさ。散歩帰りに、街角のカフェで啜るエスプレッソは格別の味わい。まさに大地の恵みが生み出す最も人間にふさわしい環境なのかも知れない。

 すべての物事が初体験である。毎日毎日が感動の連続であった。

 

 そんなある日のこと。何やら不思議な予感を捉えたのだ。かつて少年時代に『初恋』を作曲した際に一瞬だけ捉えたことのある潜在要素であった。感動の日々の中で、再びその一面を呼び起こしたのである。

 『二台のチェロのためのミニアチュール』と『チェロとピアノのためのすみれ』が順次生まれた。

 『ミニアチュール』は、家内と共にプラター遊園地を散策しながら発想した。しかし何故、この曲をチェロ・デュオで書いたのか未だに解らない。その頃、一緒にチェロを弾く相棒がいたわけではないのだ。一言でいえば、この曲は必然的にチェロ・デュオでなければならなかったということになる。無意識の作業であったが、今あらためて弾いてみるとチェロの魅力が存分に活かされていることを再確認できる。

 『すみれ』は、ふとしたことから日本への郷愁に駆られて書いた。日本の風土が無性に恋しくなったことも原因の一つであるが、実は家内にピアノを弾かせ一緒に愉しもうという目的があった。家内は小学生時代にマリンバを弾いていたことがあり、さてもコンクールで賞を取るほどの器用さを持っていたようなので、教えれば案外ピアノも弾けるようになるのではと思った次第である。それ故ピアノ・パートについて、当初はなるべく家内が弾き易いように工夫して書いた覚えがある。

 私たちが結婚前に富山の片田舎で体験した「すみれ摘み」の情感と、異国で抱く郷愁という心的状態とがオーバーラップし、それがウィーンを象徴する「ウインナ・ワルツ」と融合した次第である。

 

 さて、開口一番にクロチャック教授から与えられた課題。いわゆるエチュードの数々は、何とか順調にこなしていった。一つ仕上げれば次、一つ仕上げれば次という具合に、もうこれ以上取り組むべきエチュードはなかろうと思えるほど徹底的にやった。

 一冊のエチュードには少なくとも二十曲のピースが詰まっているわけだから、いずれ物にしたのはおよそ百ピースを下るまい。結局、一年余りの月日の殆どはエチュードの征服に費やしたことになる。

 

 一年目の夏休みは、ザルツブルクの講習会に参加した。もちろん家内も一緒であった。この時の思い出は二つある。

 一つは、ドナウ河畔の屋台で「鱒のフライ」を買い、街の風景を眺めながらそれを食べたこと。ドナウ川といっても、ウィーンの街で見るそれとはまったく異なり、背景には悠々たる風景が映えていた。悠久の音楽が切々と棚引いていたのである。

 もう一つは、真夏というのに突然雹が降ったこと。凡そ五百円玉ほどの大きな雹であった。余りにも珍しかったので、私たちがそれを直に見たいと思ってそそくさと戸外へ出ようとしたところ、寄宿していたペンションのおばさんに見つかり引き留められたという顛末である。

「今外へ出ると死ぬよ!」

 それほど激しい降雹であった。

 ヨーロッパの山岳地帯の急激な天候の変化に驚きながら、私たちは子供のようにはしゃいでしまった。

 

 講習会では、もちろんクロチャックのクラスを受講した。

 この時は特別にハイドンのハ長調の協奏曲を弾くことが許されたので、私なりに一生懸命取り組んだのだが、残念ながらコンサートへの出演は叶わなかった。ただ、この曲の各楽章のカデンツァを自分自身の手で書き上げたことだけは大いに褒められた。

 協奏曲のカデンツァというものは、本来作曲家が書くものではなく、己の持てるテクニックを存分に披瀝するべく演奏家自身が書くものである。

 

 二年目の夏休みは、フランスの高級別荘地、スイスとの国境に隣接するアヌシー市の講習会に参加した。晴れ渡るセルリアンブルーの空、そして大きな澄み切ったアヌシー湖があった。どの角度から眺めても美しい自然風景が広がっていた。

 

 私が受講したのは、フランス人の世界的な女流ソリスト、レーヌ・フラッショーのクラスだった。このクラスには、私の他にパリで勉強しているという日本人のチェリストがもう一人来ていた。関西弁のひょうきんな男であった。

 クラスの受講者は十数名ほどだったかと思う。殆ど若い学生であった。教室に受講生たちが集まり、フラッショーのレッスンが始まった。フラッショーは、皆の前で挨拶めいたことをフランス語で話した後、のっけに私を指して言った。

「あなた、弾いてみなさい!」

「・・・?」

 私は余りの唐突さに吃驚しながらも嫌とは言えないので、予め準備していた例の大村教授直伝のサンサーンスのチェロ・コンチェルトを弾いた。

 何故だか、私はフラッショーに気に入られたようだった。その日の内に私のコンサートへの出演が決まった。

 

 レッスンが終わり、私たちが寄宿舎のホテルへ戻ろうとしていると、

「今晩いっしょに飲まへんか~!」

 と関西弁の男が聞いてきた。

私としてもぜひ親交を深めたかったので、二つ返事で承諾した。

 その晩、いっしょに会食をした。関西弁の男は、もう一人、日本の男性を連れてきた。一見貴公子風然としたフルート吹きであった。日本では有名な料理の先生の孫だそうである。

私と同じ東京の出身であった。彼も数年前からパリで勉強しているのだった。因みに関西弁の男は兵庫県の出身である。

家内を含め四人の会食となった。

 

「あんなフラッショー見たことあらへん。特別なんとちゃうか~。わしらが弾いたって全曲最後までじっくり聴いてくれへんもんな~。あんた特別やわ~。」

 と関西弁の男がのっけから言葉を発した。

 私は始め彼が何をいっているのか解らなかったのだが、話を聞いている内に徐々に内容が飲み込めて来た。

 つまりフラショーは、生徒が下手に弾くと怒鳴り散らしてまともにレッスンをしないのだという。恐らくソリスト特有のわがまま気質というものであろう。また、初参加にも拘わらずいきなりコンサートの出演が決まるのも異例のことだと言う。

 事前に手を回したわけでもなんでもない。ウィーンの大学でたまたま目にとまったチラシに興味をそそられて申し込んだに過ぎない。紹介状や推薦状があったわけでもない。私にとっては、見知らぬ街の見知らぬ講習会でしかなく、レーヌ・フラッショーという人物がどれほどの著名人であるかと言うことすら、講習会に参加するまで知るよしもなかったの。

 関西弁の男の言うことが本当だとすれば、

クロチャック教授のもとで徹底的に音階とエチュードを叩き込まれたことが、大きな成果となって表れたのであろうと判断できる。堪えに堪えて取り組んで来ただけの甲斐があったというもの。

 

 コンサートは、丘の上に聳え立つアヌシー城で行われた。昔映画で見たことのあるような中世の城であった。城からは、街と湖が一望に見渡せ、眺めは絶景であった。

 一夕目はバッハの無伴奏チェロ組曲第三番を全曲弾き、二夕目はチェロ・アンサンブルの第1チェロを担当し数曲の小曲を弾いた。

 両者のコンサートで感動したのは、終演後に見知らぬ数人の聴衆が舞台袖へ訪れ、

「素晴らしかった!」

 と口々に声を掛けてくれたことであった。

そういうこと一つ一つが生まれて初めての感動的な体験となった。

 

 講習会に夫婦で訪れていたのは、私たち二人だけだったようである。ドイツ語圏から来た受講者も他にはいなかったようである。

 アヌシーに到着し、講習会の事務局で受講手続きをした際、対応してくれた人がたまたま片言のドイツ語を話せたので大助かりだった。大抵のフランス人は、他国語を口にしない。たとえ分かっていても話さないと聞いていた。私たちは運が良かったのだ。

 その事務局の人は、笑顔の絶えない素敵な中年女性で、言葉に不自由している私たちを優しく受け入れ、何かと便宜を計ってくれたのであった。

 そして更に、思いがけない恩恵をも被ることになった。その中年女性が、何と自宅の晩餐会に私たち二人を招待してくれたのである。片言のドイツ語を話せるということは、もしや彼女はドイツびいきだったのだろうか・・・その訳をついぞ聞きそびれてしまった。

いずれにしても、お互いが片言だったので突き詰めた会話は出来なかったにしても、心が通じ合えたことは事実であり、何よりの幸いだったと言えよう。

 唐突な誘いではあったが、私たち夫婦は彼女の人柄を信じ、言葉に甘えてお宅を訪問した。お宅には、穏やかなご主人と可愛らしい娘さんがいた。扮飾のないまったく嫌みのない素敵な家庭であった。

 ハムとチーズとパンと、そしてワインが振る舞われた。ヨーロッパではごく一般的な夕食の献立である。どれを取っても美味であったが、やはり一番はフランスを代表するハム「ジャンボン・ド・パリ」であった。

 見知らぬ土地で偶然に出会った見知らぬ他人による予期しない温情であった。人間の純粋な心の温かみというものを深く感じたひとときであった。

 昔から、日本人は人情深い民族であると聞かされて来たが、それ以来私はそのことを疑問に思っている。

 

 いつの間にかウィーン生活も二年が経過し、そろそろ見切りをつけるべき時期に来ていた。

 クロチャック教授は、めっきり体調を崩しやすくなり、休講も多くなった。私としては、最終段階で教授の楽曲に対する見解をたっぷり享受したかったのだが、残念ながら望みは叶わず仕舞いとなった。流石のクロチャック教授も歳には勝てないという様子を見せ始め、段々とレッスンにも気迫も無くなって来た。

 そんなクロチャック教授に相談することもままならず、一人思案に耽るのだったが、結局は大村教授に相談するしかないのだった。私は、現況をしたため新たな指導者の紹介を求めたのである。

 後日、大村教授から返事が届いた。

「目下、ベルリン・フィルの首席ソロチェリストであるエベルハルト・フィンケ氏に問い合わせをしている。フィンケ氏からの返事が来るまでにはしばらく時間が掛かるであろう。」

 と認められていた。

 それ以後の幾許かの展開の可能性が感じられたので、私たちは取り敢えず一時帰国することを決めた。

 

 クロチャック教授を心から尊敬していたし、ウィーンも大好きであった。当然、私の心の中には沢山の未練が残るのであったが、やはり背に腹は代えられないということになる。

 


 

(14)一時帰国

 

 ウィーンの住まいを引き払い、家内共々帰国の途についたのは、確か初夏であった。二年間も生活していれば何かと物が増えていて、片付けやら引っ越しの準備には随分と手間が掛かった。

 渡欧の際に日本から別便で送った二つの大きなジュラルミン・ケースがあった。滞在中は季節の衣類などを収め、花柄の布を掛けて飾り棚として使っていたものだが、日本へ帰って差し当たり必要な分だけ手持ちのスーツケースに入れ、他の物はすべてそのジュラルミン・ケースに詰め込んだ。再びヨーロッパで生活することを前提としていたので、二つのジュラルミン・ケースは家主の了解を得てしばらく預かってもらうことにした。果たして次の住まいがベルリンとなれば、そちらへ送ってもらうようお願いした。しかし、もしも再渡欧が叶わない場合には、日本へ発送してもらわねばならなかった。

 

 ウィーンの空港からルフトハンザ便を使いフランクフルト経由でローマへ行き、そこでエジプト航空に乗り継ぎ、カイロ~ボンベイ~マニラ、そして日本到着というコースであった。

 もしかすると、記憶に多少の誤差があるかも知れない。どうしても思い出せない部分がある。ウィーンを出発し日本へ到着するまでの旅は、旅行代理店が提示した内容と異なり、結末は予定外の成り行きとなった。

さて、二日掛かり、いや三日掛かりの行程となったであったろうか・・・。当時、一番安い便を探した結果がそれであった。今となっては冗談のような話である。

 

 先ず最初の出来事は、ローマ空港のロビーで乗り換えのための時間待ちをしていた時のことであった。ふと見上げた時計が完全に止まっていたのだ。空港の時計が止まっているなんて信じがたい。いつもは腕時計をしない私だったが、この時はたまたましていたから助かったようなものの、もし空港の時計を当てにしていたらどうなっていたか・・・もし乗り遅れでもしたら・・・。私は馬鹿みたいに一人で憤慨し、それを家内は宥めた。冷静に考えれば、バスや電車の発着時刻が曖昧であっても当たり前のことで、当時のヨーロッパでは日常茶飯事のこと。ヨーロッパならではの風情であり、その悠長さが良かったと言えよう。

 

 そして問題の事件、ローマを発った後に起こった。

 カイロの空港で、てんやわんやの事態となったのである。飛行機が、突然動かなくなった。その原因が、少なくとも私たち夫婦には伝わって来なかった。それゆえ大いなる不安に駆られた。

 私たちは機内から外へ追い出され、強制的にバスに乗せられ市内のホテルへ連れて行かれたのである。そして某ホテルに着くと、いきなりパスポートを取り上げられてしまった。始めの内は警察による単なる持ち物検査かと思ったのだが、あれよあれよという間にパスポートは持って行かれてしまった。余りに突然のことだったので、何が何だか訳が分からず、私たちにしてみればもう不安を通り越して恐怖へと及んだ。

 乗客の中には、

「マイ・パスポート!マイ・パスポート!」

 と叫んでいる人もいた。

 しかし、無駄な抵抗でしかなかった。乗客全員、恐らく何十名かいたと思うが、恰も拉致監禁のようなシーンとなってしまった。まさしく恐怖を煽るかのような状況であった。危機感を被ったのは私たちばかりではなく大勢だったので、ある意味恐怖は最小限に抑えられたとも言えようか。

 また、ホテルに来て初めて気がついたのだが、私たちの他にもう一人日本人がいた。もしやと思って話し掛けたら、日本語でかえって来た。中年のご婦人で、私たちよりも遥かに外国慣れしていて、英語を流暢に話していた。思いがけず、私たちにとっては救世主となった。その後は、目の当たりにしている状況の説明を伺うことが出来し、何かと助けを被り、不安や恐怖感から徐々に解放されて行くのであった。

 私たち夫婦は、結局ホテルの一室に閉じ籠もり、まんじりともせずに過ごした。もちろん宿泊などの費用はすべて航空会社持ちということであった。食事も宛がわれたが、不味く喰える代物ではなかった。部屋の水道の水は怖くて飲めず。そして寝るに寝られず一夜が明けた。

 ホテルに連れて来られてから何時間が経ったろうか。ようやく案内人が現れた。

「搭乗するまでにはまだ充分な時間があるので、希望者には市内観光を提供する。」

 と言うお触れであった。このことも、もちろんあの日本人のご婦人からの説明で解ったことである。

 私たちは極度に疲労していたし、これ以上タライマワシにされるのが嫌だったので、飽くまでもホテルでの待機を希望した。幾人かの乗客は観光へ繰り出したようである。

 待たされることに好い加減飽き飽きしていたところに、先ほど観光へ出向いていた連中が戻ってきた。その後ホテルのロビーに乗客全員招集され、やっとパスポートが各人に返却されたのであった。

 やれやれと思いほっとしたところで、次は空港へのバス移動となる。いつの間にか外は暗くなっており、移動中の風景は暗くまったく見えない状態であった。街灯も乏しい。

「本当に空港へ向かっているのだろうか!」と最後まで不信感を抱きつづけていたが、気が付つくとカイロ空港に到着した。搭乗手続は思ったよりもスムーズに運び、乗客全員が再び機内に収まった。飛行機は無事飛び立ったのであった。

 

 順調な飛行であった。時折、気流の関係で少し揺れることはあったが、カイロでの出来事を考えればずっとマシであった。

 行程は更なる時間を費やし、ボンベイとマニラでその都度長い休憩があった。多少なりと民族模様の見聞になったと言えば聞こえは好いが、兎に角早々に心象を害されてしまったのだから、観光的な興味や感動や喜びなどは微塵も湧いては来なかった。結局、想像を絶する疲労の旅となり、もう二度とこのコースは選ぶまいと思ったのである。あの旅慣れた親切なご婦人に感謝を告げた。

 

 二年振りの日本である。

 ヨーロッパの風土は心地良さがったが、それとは真逆に羽田空港に到着し飛行機から降り立った時のあの何とも言えない蒸し暑さ加減には辟易とした覚えがある。

東京(都心)では、渡欧前には見られなかった高層ビルが幾つも聳え立っており、交通量も激増していた。まさにバブルの時代であった。たった二年の間に、世の中こんなにも変わるものかとびっくりするばかりであった。ヨーロッパとの余りの格差に溜め息が出るほどであった。

 たった二年間であったが、ヨーロッパの情緒に慣れ親しんでいた私たちにとって、目の当たりにする騒然たる情勢には不快感すら覚えるのであった。どんなに機械文明が発達し、その正確さを重んじどれほど誇ったとしても、人間の心が人間として生きている証を捉えていなければ何の意味もない。

 

 しかし、そうした日本に対する感懐も一瞬のこととなる。両親や祖父母、親戚や友人知人・・・異国の地でいつも懐かしく思っていた人たちとの再会は、すべてを打ち消してしまうのだった。

 誰しもが私たちを快く迎えてくれた。どこへ訪ねて行っても歓迎され、外遊顛末記で花が咲いた。

 もちろん、単なるつかの間の現実でしかないのだが・・・。

 

 久しぶりの日本生活でたちまち困ったことは、何を隠そうトイレ問題であった。幼少よりずっと慣れ親しんできた和式トイレであったが、たった二年間の外国生活によって形勢が変わり洋式に順応してしまっていたのである。露とも考えつかなかったことであった。

 帰国後一週間にして、足腰をダメにしてしまった。疲れのせいか、はたまた食習慣のせいか・・・やはり刺身類か。腹をこわし、トイレの使用が頻繁になったことが原因だったようである。しゃがむ、立ち上がるという作業がこれほど辛いものとは、生まれてこの方一度も感じたことはなかった。そしてこれが何と、夫婦共々同時進行だったからして実に可笑しい。皆から気の毒がられたり笑われた。私たちは苦笑するしかなかった。

 今や、日本も洋式が普及し、そうした事例はもうなかろう。

すでに機械文明危機が発達した日本であったが、一般家庭においてたとえ水洗化したからといって、主流派はまだ和式であった。

 

 帰国歓迎の意として、親友のI君が中心となり音大の同級生が集まり自主演奏会を開いてくれた。それは、私が日本で行った初めての記念すべき公の演奏会であった。

 三年前、同時入学した朋友は私を含め四人。しかし私が中途中退してしまったので、お付き合いとしてはたったの一年であった。ただI君とだけは例外的に親しくしており、渡欧中も手紙のやり取りがあった。他の二人は、それほど親しくしていたわけないが、それでも良き仲間であった。

 演奏会は、『チェロ・アンサンブルの夕べ』と題した。会場は、東京千駄ヶ谷の野口英世記念会館であった。チェロの二重奏や三重奏、そして四重奏などを披露した。それはまさしく日本初のチェロ・アンサンブルのコンサートであった。本番前の下稽古については、会場予約の関係でわずかしかできなかったが、それなりにまとまったものに仕上げられたし、成果はあったと思う。I君と演奏したバリエールのデュオは、何よりも楽しく思い出深いものとなった。

 

 しかし、私にとって不本意だったのは、本番当日の客席の雰囲気であった。舞台と客席との間に分厚い壁のようなものがあり、それはむしろ音楽への拒絶感と感じられたものであった。異様に冷たい空気が充満している。演奏に対する反応がないと言っても過言ではなかった。

ヨーロッパでのそれとはまるで違う。この較差はいったい何なんだろうと、虚しさが残った。そしてその時、私は日本の音楽界の未熟さを痛感し前途多難を悟った。

そして更に、日本に於ける致命的な問題は風土にあることを深く認識したのである。湿度が高く、楽器が鳴る環境にはないのだ。果たして日本の演奏家は、この環境を何が何でも克服して行かねばならない運命にある。たとえ楽器演奏に支障をきたそうときたすまいと、それを職業とする限りは決然と乗り越えねばならない、これももう一つの壁である。響かない所で無理やりに音を出そうとすれば、やはり不自然な音楽になってしまうのは必定。そのための策を講じねばならなない。問題点は多い。

このことについては、話せば長くなってしまうので後々改めて書くことにしたい。

 

 最後に良き思い出がある。親友I君が、私たち夫婦を彼の故郷広島へ誘ってくれたことである。彼の実家を訪れ、大いに語らい。またお母さまに弁当を作って頂き、それを持って観光巡りもさせてもらった。厳島神社や、それからついぞ名前を忘れてしまったが某所の立派な滝も観た。

 たった1か月余りの一時帰国であったが、何だかんだ言っても私は日本人である。日本語における親友との談論風発は無二の幸いである。

 

 人間というのは甚だ勝手な生き物である。向こうにいる時は生まれ故郷の日本を懐かしみ、しばし日本で過ごしてみれば逆にヨーロッパがやたらと恋しくなる。困ったものだ。

 

 大村教授、或いはその他の教授筋を通して間接的にフィンケ教授へ入門の打診をしていたわけだが、フィンケ教授からの返事はなかなか来なかった。

 当時ベルリン・フィルは、帝王カラヤンのもとで世界的な名声を恣にしていたので、長期海外公演も多かったようである。フィンケ教授は、オーケストラの首席ソロ・チェリストを務めると同時に、幾多の室内楽活動も行っていたようで、恐らく多忙を極めていたに違いない。また夏となれば、丸々避暑地へ行ってしまうということがある。

 

 待ちに待ったフィンケ教授から返事が届いたのは、夏休みも終わに近づいた時分であった。

 吉報が届いた。

「承知した。直ぐに来なさい。」

 との文面がしたためられてあった。

 半分ぐらい諦め状態にあったので、私の喜びはひとしおとなった。

 希望が甦り、小躍りした。

 


 

(15)パリ~アヌシー繋がりの友と

 

 1972年初秋である。私たちは新天地を求め、西ベルリンへと旅立った。日本では、蒸し暑さからようやく解放され、四季の中でもっとも爽快な時節に入る頃、ヨーロッパではすでに冬を感じさせる冷たい風が吹いていた。

 

 この二回目の渡欧に際しては、今までの中で一番安い航空便を使った。ロシア航空(アエロフロート)である。羽田発モスクワ経由のパリ行きで、日本からヨーロッパまでを最短距離で飛ぶ。モスクワの空港でおよそ三時間の休憩を余儀なくされるが、それを含めてもパリまで十四時間しか掛からない。その休憩時間は、単なる給油のためではなく、乗客に中継ロビーでお金を使って行ってもらうための設定である。最低でも、誰しも飲み物ぐらいは買うものである。

 当時、ロシアの上空を飛べるのはロシア航空だけだった。機内サービスは極めて悪く、スチュワーデスも暗くて怖そうな感じだった。いわゆる国勢的危険性をも伴う航空便であったが、先般の南回りに比べればこの北回りの方がずっとマシな面があった。最短距離で低価格となれば十分な魅力である。

 

 パリからベルリンへ行くには、いずれにしても別の便に乗り換えなければならない。絶好の機会だったので、私たちはパリでの旅泊を決めた。アヌシーで仲良くしてもらった友達との再会も目的の一つであった。予め関西弁のチェリストに連絡を取り、パリの空港で落ち合うことを約束した。

 

 フライト・プランでは、オルリー空港に到着する予定であった。ところが気がついてみれば、何と到着したのは別の空港だった。『翼よ、あれがパリの灯だ!』の映画で知られるル・ブールジェ空港である。オルリー空港が濃霧だったので急遽こちらに変更したということだった。

 さて、どうしたものか・・・関西弁のチェリストとはオルリー空港で落ち合うことになっていた。不徳にも私は、彼に宿泊のホテル名を知らせていなかったのである。恐らく彼は予定通りオルリー空港へ赴いているに違いないと判断。私たちはタクシーでオルリー空港へ移動することにした。

 タクシーの運ちゃんにドイツ語なんぞ通じるはずもないので、

「オルリー。オルリー・エアポート!」

 と叫ぶしかなかった。

 

 ル・ブールジェ空港からオルリー空港までは結構な距離であった。1時間余り掛かったと記憶している。とんだことで出費が嵩んでしまったが、結果的にそれは正解となった。思った通り彼はオルリー空港へ来ていて、そこで変更を知ったが、下手に動かぬ方が得策と咄嗟に判断したらしい。

 

 迎えに来ていたのは、関西弁の彼と、彼と共にアヌシーで遭遇したフルート吹きであった。二人揃って私たちを出迎えてくれた。私は、二人の顔を見た途端にアヌシーで過ごした日々のことを思い出しふと目頭を熱くするのだった。そして私たち四人は、予約していた三つ星のホテルへタクシーで直行した。フランスのタクシーと言えば、ドイツのタクシーがベンツであるように、ほとんどが流線型の昔ながらのシトローエンである。

 今度は、彼らが何から何までフランス語で対応してくれたので、私も家内も余裕綽綽で車窓からの風景を堪能した。初めてのパリであった。その日は、ホテルの私たちの部屋で一杯やり、アヌシーでのよもやま話にひと花咲かせた。

 

 次の日は、関西弁の彼の下宿を訪ねた。もちろんホテルまで迎えに来てくれた。彼の下宿は、かつて白黒映画で見たような、パリらしい風情がふんだんに漂う憧れの屋根裏部屋であった。一人暮らしの留学生には適切な住まいである。もしも私がパリで一人住まいをするとしたら、即座にこういう部屋を探したに違いない。高校時代からの付き合いである絵描きの友人も、やはりパリに留学していてこのような屋根裏部屋に暮らしたと言っていた。ドイツでもどこでもこのような屋根裏部屋はあるには違いない。しかしパリのそれは一味違う。その違いを知るには、実際に時分の目で確かめるより他あるまい。

 

 関西弁の彼とは、同じ外国で学ぶチェリスト同士、色々と志向性に共通点を見い出していたかもしれない。彼と私は、恰もあのナヌシーの時空へとタイムスリップしたかのように、チェロ・デュオをやって見たり、ドイツとフランスの音楽の違いについて語り合ったりした。

 その後、彼に導かれるままにもう一人のフルート吹きの下宿を訪ねることになった。

 ところが訪れてびっくり。そこは下宿と言うような一般庶民的建造物ではなかったのである。ロビーに一歩足を踏み入れるやいなや一面に大理石が敷き詰められており、見回せば全体に華やかな装飾が施されていて、明らかに超豪華マンションである。さすが有名な料理研究家の孫であると、深く感じ入ったものであった。

 関西人の彼が呼び鈴を押すと、しばらくしてフルート吹きが現れた。

「このマンション、家賃はどれくらい?」

 図らずも私は口走ってしまったが、彼は微笑んだだけで私の問いには答えなかった。野暮な質問であった。

 

 私たち夫婦は、彼らの案内により安心してパリの街を観光した。エッフェル塔や凱旋門を眺め、シャンゼリーゼ通りのショーウインドウを覗き、屋外のカフェテラスでお茶を飲んだりした。

「これ面白そうやないか~。観ていかへんか~。」

 某映画館の前に差し掛かるなり、関西弁の男が言った。

「好いね!」

 と、超有名料理研究家の孫のフルート吹きが返した。

 上映していたのは、日本映画で『緋牡丹お竜』と『珍品堂主人』の二本立てであった。私も家内も、ここに来て今さら日本映画でもなかろうとは思ったが、察してみれば彼らは長いこと日本に帰っていないので、きっと懐かしさが込み上げて来たのに違いない。私たちがパリを訪ねて来たことで懐かしさを誘発させてしまったのかも知れないのだ。

 私たち四人は躊躇いもなく映画館に入った。フランス人がどんな風に日本映画を鑑賞するのか、大いなる興味が湧いた。館内には思ったよりもたくさんの人が入っていた。皆フランス人なのだろうか。確認してはいないが、日本人は私たち四人だけだったようである。

 

 予想外だったのは、先ずもって映画の台詞がすべて日本語だったこと。吹き替えや字幕もなく、まさしく原作のままであった。

 果たしてフランス人に日本映画の内容が理解できるのだろうかと心配したのものだが、考えてみれば私たち日本人も字幕や吹き替えのない外国映画を鑑賞することもあり、けっこう解って観ているわけだし、だから何も奇妙奇天烈なことではないのだ。それぞれ違和感はあっても、同じ人間であると言うことである。

 映像の説得力というものを改めて認識させられた場面であった。言葉が通じなくても、人間は笑うところで笑い悲しむところで悲しむのである。

 

 その日の晩は、ポール・トルトリエのチェロ・リサイタルへ行った。関西弁の彼が勧めてくれたのである。もしも彼が勧めてくれなければ、当然知らず仕舞いで終わってしまったことであった。

 トルトリエは、世界的に活躍するフランスのチェリストで、日本でも幾度か公演していた。

 リサイタル会場は、音楽鑑賞に相応しい落ち着いた雰囲気で、四百~五百席ぐらいの適度なキャパシティーであった。いわゆる古い造りの小ホールである。

 

 いよいよリサイタルが始まる。くの字に細工されているエンドピンを装着したチェロを抱えトルトリエが現れる。その特殊なエンドピンは、トルトリエ自身が考案したもので、世界に広く知られてはいたが、実際に使用しているチェリストは少なかった。チェロ本体が奏者の体と直角に近い状態になるので、ヴァイオリンのように弓を乗せ易くなる。奏法上では確かに理にかなったものあった。

 因みにあのレーヌ・フラッショー女史もそれを愛用しており、妊娠してお腹が大きくなった時には極めて具合が良かったと言っていた。

 しかし、奏者の体型によっては無理が生じてしまう。背が低く、腕の短い日本人には不向きである。トルトリエを気取ってやってみたところで意味はなさそうだ。

 

 トルトリエの音には、多少ヒステリックなイメージがあったが、それは独特の繊細さの所以であると思われた。

 ドビッシーのチェロ・ソナタが弾き出され、おおよそ曲の中程に差し掛かった時のことであった。突然、客席から「ブーブー」という罵声が投げ掛けられた。それは一人や二人の声ではなかった。私は始め、悪質な集団が著名人に対する嫌がらせをしに来たのかと思ったのだが、関西弁の彼は、

「パリでは良くあることなんや!」

 と、当たり前のように言った。

 私はまだ未熟者であったので、その時はその真の意味合いを感じ取るには至らなかったが、取り敢えず単なる罵声でないことだけ解った。いわゆるブーイングと言われるもので、奏者に対し不平不満を表明する一つの正統的な手段なのであった。

 聴衆は、トルトリエの演奏に気がこもっていないこと、手抜きとも言える演奏をしていることに対し不満を訴えたのであった。技術の問題ではなく、心が伝わらない演奏は決して許されないと言うことである。一流の演奏家であるからこその所以であった。

 ヨーロッパには、そういう真偽を見抜ける聴衆がいると言うことである。多分日本ではあり得ない現象かも知れない。奥ゆかしさと言ってしまえば聞こえはいいが、余りそのようには感じられない。日本では、「有名人であれば何でも良し」としてしまう傾向がある。

 

 トルトリエは、演奏を一旦中止すると、暫く会場の一点を凝視したまま微動だにしなかった。恰も特定の人を睨み付けているかのようにも見えたが、実はそうではなかった。己の迷妄を払拭し意識を初心に戻そうとしていたのであった。

 再び冒頭数小節のピアノソロが弾き出され、トルトリエは徐に弓を持ち上げ弾き始めたのである。

  リサイタルは、最終的に大喝采を博して終了した。

 


 

(16)ベルリン その一

 

 パリでは、三泊四日というわずかな滞在であったが、ここでもまた多くのことを学んだ。

 ヨーロッパの主要な国々は、文明と文化の歴史に裏付けられた威光を放ち、確固たる国威を発揚している。そして、それぞれに特異な風習と能力を誇示しながら存在しているのである。《良いものは良い、悪いものは悪い》と、彼らは明確に言ってのける。好い加減な見方や捉え方、あるいは中途半端な解釈や評価はしない。

 

 私たちはパリを去り、ベルリンへと向かった。およそ二時間程度の飛行で、到着したのはテーゲル空港であった。ドイツの元首都であるから、たとえ東西に分断されたとは言え立派な空港に違いないと思い込んでいた。ましてや西ベルリンと言えば、あの世界に名だたるベルリン・フィルの根拠地である。ところが想像は外れた。何とも閑散とした空港であった。小さな税関を抜け、決して広いとは言えないロビーを横切って戸外へ出ると、今にも雪が舞うかのような寒さであった。私たちはタクシーに乗り、予約していたホテルへと直行した。

 『ホテル・ボゴタ』という家庭的雰囲気の漂うこじんまりとしたホテルだった。そこは、フィンケ教授とコンタクトを取り、且つまた下宿が見付かるまでの仮住まいであった。身の置き方が整うまでおよそ一週間ほど、そこで寝泊まりをした。

 

 フィンケ教授への連絡は、教授の同僚であるワインスハンマー氏が取ってくれた。彼はは、やはりベルリンフィルのチェリストでトゥッティ奏者(合奏要員)であった。もしや教授の同僚というよりは部下と言った方が適切かも知れない。それほど首席奏者とトゥッティ奏者のと格差は大きかった。

 ワインスハンマー氏の奥様は、若いころから日本の音楽家との交流があったらしく、その関係で紹介されたのであった。もちろん奥様もドイツ人であったが、幸いなことに日本語が達者で、何かと生活上のことでも世話になった。また、ワインスハイマー氏がフィンケ教授と遣り取りをした内容を私たちに伝える役割も、やはり奥様が担ってくれたのであった。

 

 ベルリン・フィルのフランチャイズであるフィルハーモニーホールの門前で、私たちは初めてフィンケ教授に御目見得した。もちろんワインスハイマー氏がそこまで連れて行ってくれたのである。

 フィンケ教授は、私たち夫婦を優しく受け入れてくれた。教授の仕草や口調には、しみじみ心の温かみを感じるのだった。

 まるで映画俳優のような容姿で、演奏家とは思えないほど気品ある紳士であった。巨匠フルトヴェングラーに招聘されベルリン・フィルの主要メンバーとなった逸材である。フルトヴェングラーが亡くなる数年前のことだったらしいが、以来ずっと首席ソロ・チェリストを務めているのだから凄い。そうした経緯から察するに、齢六十ぐらいであったろうか。容姿端麗のせいで、実際にはそれよりもずっと若く見えていた。実際のところ年齢不詳である。

 

 その昔、フィンケ教授は、第二次世界大戦が勃発した際に巨匠クレメンス・クラウスの計らいによって戦況を逃れ、ブラジルへ疎開したと言う。そして戦中は、ブラジル交響楽団の首席を務めたと言う。

 終戦後、フルトヴェングラーがベルリンフィルの再建を図った際に呼び戻され、ベルリン・フィルの復活に一役買ったと言うことである。この話は、ベルリン・フィルが発行した小冊子を読んで知ったことだが、この一例を取ってみても、ドイツでは音楽家をどれほど大切にしているかを伺い知ることができる。

 

 フィンケ教授の受け入れの確認を得て、私はさっそくレッスンを受けることになった。レッスンは、私の希望でプリヴァートとさせてもらった。レッスン料は一時間五千円であった。因みに日本では、その時代から一流と言われる演奏家や大学教授は、大概一万円~三万円のレッスン料を取っていた。一体この格差は何なのか、と思ったものである。

 

 フィンケ教授には、さらに下宿までも紹介してもらった。S氏と言う、以前にやはりフィンケ教授に師事していた日本人留学生が、間借りしていた部屋であった。

 私たちはホテルを引き払い、直ちにそこへ移動した。十二畳間ほどの一室であった。一人用のベッド、背もたれを倒せばベッドになる大型ソファーが一つ、収納棚が一つ、そして余り大きくないテーブルに二脚の椅子が置いてあった。キッチン、バス、トイレについては家主と共用だった。独り者なら兎も角、夫婦にとっては誠に不自由であった。しかし贅沢を言える身分ではない。

 家主は、ツェパニックという老人であった。キッチンが共有だったこともあり、男の一人暮らしということで同情し、家内が一度料理を作ってあげたことがあった。ところがそれ以来、味を占めたらしく食事の提供を当てにされるようになり困ったこともあった。

「今日は何を作るのかい?」

 と言う具合に度々台所へやって来ては家内に声を掛けた。

 年金生活者だったから暇を持て余していたに違いない。のべつ幕無し家の中をうろついていた。それもけっこう鬱陶しかったのである。決して悪い人ではなさそうなのだが、ちょっとばかり目が不気味であった。

 後に仲良くなった人で、S氏が帰国前に付き合っていた日本人のソプラノ歌手と出会った時、

「あの爺さん!腐った鯖の目のようで嫌ね。あなたがた良くこんなところに住む気になったわね。」

 と言っていたのを思い出す。

 ツェパニックには申し訳ないが、最後まで好感度は上がらなかった。

 

 レッスンは数ヶ月間、週一回の割合でフィンケ教授の自宅へ通った。

 広い庭のある素敵な一軒家で、白を基調とした近代的な造りの家屋であった。庭には一面芝生が敷き詰められ、周辺には植木や花々が整然と配置されていて、その手入れの行き届きようには驚いた。

 ベルリン・フィルのメンバーでも、コンサートマスターやトップクラスでなければ、そうした一軒家には住めないのだと誰かに聞いた。因みにワインスハイマー氏は一家四人を抱えヴォーヌンク暮らしであった。とは言え「狭いながらも楽しい我が家」という感じで、羨ましいほど素敵な家族で会った。

 

 初回のレッスンでは、驚いたことがもう一つあった。フィンケ教授の奥様も、やはり映画俳優のような金髪の美女で、何とも眩しく感じられた。しかも温厚で気高い。

 お二人は、一目でお似合いの夫婦と見て取れるほどに、気高さのある美男美女のカップルであった。しかし、子供は授からなかったと言う。豪邸に二人きりで住んでいた。

 

 ある日、フィンケ教授から一つの提案がもたらされた。

「プリヴァートでは、レッスン料が嵩むばかりだし、もったいないから大学に入りなさい。そうすればレッスン料は免除される。また他にもたくさんのメリットがある。君にとって間違いなく有利なはずだ。」

 と言うのである。

 私は、大学に入れば余計な授業も受けねばならなくなるので、余り好むところではなかった。恐らく一、二年で日本へ引き上げることになろうと踏んでいたし、取り敢えずチェロの勉強だけに専念したかったというのが本音であった。当初からプリヴァートを希望したのは、そう言う理由からであった。

 しかし、もしも新たな可能性によって予定以上の滞在が実現するとなれば、事によっては金銭的な面で背に腹は替えられなくなるかも知れない。世界情勢を見ても、この際フィンケ教授の意見に従うのが賢明悟り、大学入学を決めた次第である。

 

 もし日本の音大を卒業して来ていれば、そこで取得した単位は有効となり、余分な授業は受けずに済んだわけである。ところが私の場合、音大を早期中退してしまったので、有効な単位は全く取得していない。結局、大学一年生からの出発を余儀なくされたのであった。

 

 ヨーロッパでは、大概九月が新学期となっている。よって私は、秋の第一ゼメスター(一学期)からの開始となった。

 実技試験は一応行われた。この時も、私は例のサンサーンスのコンチェルトを弾いた。試験場には、ピアニストのロロフ学長を始め幾多の教授陣が列席していた。余りにも格調高い雰囲気だったので、私は殊のほか緊張してしまい、その時の演奏の出来具合についてはまったく記憶がない。

私は、不安を抱えながら合否の知らせを待つことになった。

そして、恐らくフィンケ教授の口利きがあったからこそと思うが、幸い合格となった。

 1973年秋、私はベルリン国立音楽大学(現ベルリン国立芸術大学)に入学。正規の学生となった。

 

 入学早々、案の定いろいろな学科の授業が割り当てられた。外国人には、先ずドイツ語の特別授業が必須であった。そのほか音楽史、リトミック、和声楽、楽理など、いわゆる音楽に関係するものばかりであったが、言わずと知れて言葉が不自由な私にはけっこう重荷である。とは言え、頑張るよりない。

 

 フィンケ教授が言った通り、授業料は一切なかった。ただし年にニ度、学期始めに学生保険料として十九マルク(約二千円)を納入する義務があった。いわゆる大学生を対象とする総合保険であり、それは本人だけではなく家族にも適応される形になっていた。

 話が後先になってしまうが一応触れておこう、入学の翌年である、実は家内がベルリン国立大学病院で第一子の出産に及んだのだが、出産から入院までのすべての費用はその学生保険で賄われた。そのうえ祝い金までもらった。

 ドイツという国は、私たちのような一介の外国人留学生に対してまでも、ドイツ国民と同等に扱ってくれたのであった。当然、根拠や理由があって設けられたシステムであろうが、しかしこの在り方はまさしく驚異としか言いようがない。私たちにとっては計り知れない恩恵となった。そして私たちは、ドイツという国の度量の大きさを実感するのであった。兎に角、学生は差別なく優遇された。

 

 さて、ベルリン国立大学のシステムについては、もう少し詳細に書いておこう。

大学には在学年数に制限がなかった。基本的にいつまで在学していても構わないのであった。授業料は一切なく、学生保険は常時適用された。

例えば己の希望で専攻科目の卒業試験を受けると、出来が良かろうが悪かろうがその時の採点で最終的な資格が決まり、その科目については二度と大学で学ぶことは出来ない。つまりその時点でその科目は完全打ち切りとなってしまうのである。しかし専攻科目を変更し申告すれば、更なる在学が可能となる。例えば、もしチェロ科を卒業し、その引き続きで指揮を勉強したいと思えば、新たに指揮科へ入学することが出来るのである。実に合理的なシステムだ。

 演奏家になる方向性、学者になる方向性、教育者になる方向性・・・選択肢は多い。幾つでも方向性を変えて勉強することが出来るのである。それゆえ複数の称号を取得することも可能である。本人の意志がとことん活かされるシステムと云えよう。

 日本のように、順調に単位を取れば四年でほぼ自動的に卒業というのではない。たとえ在学一年であっても、それなりの技術に達していれば卒業試験が受けられ、卒業証書が授与される。実力によって評価されるのである。

 

 入学を切っ掛けに心機一転、私たちは下宿も新しくすることにした。あの「腐った鯖の目」のお爺さんとの同居生活には、もう耐えられないところまで追い込まれていたのであった。

 またしてもフィンケ教授に相談することになる。

「あのおじいさんが気に入らないので・・・」

 とは言えないので、

「もう少し広いヴォーヌンクへ移りたい」

 と、お願いしたのだ。

 フィンケ教授は私たちの願いを快く聞き入れ、即刻心当たりを探してくれた。物件は、幸いにして直ぐに見つかった。二十畳ぐらいの部屋が二つ、十二畳ぐらいの部屋が一つ、素敵なバルコニーが付いている3DKのヴォーヌンクであった。

 ヴォーヌンクの外壁には銃弾のあとが残っていて、第二次世界大戦を彷彿とさせる古い五階建ての建物であった。壁は相当に厚く、外音は完全にシャッタアウト。内装もしっかりしていた。天井は日本家屋の倍ほどの高さがあり、宮殿のような豪華さはないにしても、それなりに美しい模様が施されていた。各部屋の扉もすべて装飾が施され分厚く出来ていた。

 暖房は、暖炉であった。タイル造りの大きな暖炉が各部屋に設置されており、四角い炭団のような物を燃やして暖める古風な方式であった。冬場は、毎朝焚き付けをしなければならないという面倒臭さはあったが、とても火保ちが良く一日中暖かであった。また夏場もエアコンなど一切不要で、蒸し暑さというものは全くなく快適であった。

私たちにはもったいないぐらいのゆったりとした住まいで、それだけ立派な構えであるからして、もしや家賃がべらぼうに高いのではと心配したものだったが、思ったよりも安く、何と月々日本円にして三万円弱なのであった。敷金もなし、権利金もなし、更新料もなし。日本では考えられない状況にびっくりであった。

 フィンケ教授の話では、住人を選んで入居させていたというから、家主の哲学的見解による粋な計らいがあったのかも知れない。

 

 家主の名はエドウィン・グランドウフスキー、白系ロシア人であった。博士号を五つか六つ保持する逸材であった。学識豊かな品位の高い中年紳士であった。生涯独身主義を貫いていることを、ある日得々と話してくれたのは印象的であった。

 彼は、同じ建物の三階に老母と二人で暮らしていた。因みに私たちの住まいは二階であった。

 グランドウフスキーと私は、いっぺんに意気投合した。

 ベルリンに来てから大凡二年が経過していた。

 


 

(17)ベルリン その二

 

 ベルリン音楽大学への入学は、私にとって本格的な音楽修行の糸口となった。それはまさにフィンケ教授の厚意の賜物であった。そして時間の経過と共に、師が私に大学への入学を勧めた理由が明確化していった。

 

 ベルリンでの生活はおよそ三年に及んだが、実に目まぐるしい日々となった。最終的には人生最大の転機へとつながるわけだが、短い期間に余りにも色々なことがあり過ぎたものだから、一つ一つの記憶を辿るのは至難の業である。

 歯痒いかな、脳がすでに老化していて働かないので困っている。順次メモをするなど整理整頓を試みるのだが、なかなか埒があかない。取り留めもなく考えあぐねるばかりでは事が始まらないので、取り敢えず演奏資料など辛うじて残っている分だけでも書き出してみることにしよう。そうすれば、もしかしてあれやこれやと思い出すかも知れない。

 

 

●1973年9月25日

 入学試験

●1973年10月1日

 授業開始

●1974年4月9日

 ラジオ・ドラマ『虐殺者たちの涙』のためにサンサーンスの『白鳥』を収録(ベルリン・ラジオ放送局)

●1974年6月12日

 フィンケ教授クラスの演奏会(ブンデスアレー・カンマーザール) 

●1974年9月15日

 ベルリン音楽祭に於ける『世紀の転換に纏わるシェーンベルグの周辺』にてカール・ゴールドマルクのチェロ・ソナタを演奏(ブンデスアレー・コンツェルト・ザール)

●1974年11月8日

 チェロ・リサイタル(アルトシェーネベルガー・ザール)

●1974年11月12日

 チェロ・リサイタル(ホッペ夫人宅でのホームコンサート)

●1974年11月17日

 チェロ・リサイタル 『若き芸術家のコンサート』(シュパンダウ・ブルガー・ザール)

●1975年3月21日

 室内楽コンサート 弦楽四重奏(ランクヴィッツ・ゲマインデ・ザール)

●1975年6月3日

 卒業

 

 

 取り敢えず入学から卒業までに行った演奏のあらましを羅列してみた。入学以前は自宅レッスンだけだったのでベルリンでの演奏歴はない。因みにフィンケ教授のクラス演奏会以外のすべてのコンサートにはギャラが発生していた。

 その他、ラウレンティウス教会でやったパイプ・オルガンの伴奏による独奏(ヘンデルのチェロ協奏曲、アヴェ・マリア他)や各種の室内楽など、演奏した記憶は脳裏に残ってはいるものの、資料が散失して日付が分からない。また卒業試験を受けた日時についても、はっきりと思い出せない。しかし4月17日から5月5日まで、何らかの目的で休暇申請を取り一瞬だけ日本に帰国しているので、卒業試験は5月後半であったことは間違いない。

 

 独奏や室内楽の他には、ベルリン交響楽団でのエキストラがある。ベルリン交響楽団というのは、ベルリンではCオケに相当していた。Aオケは言わずと知れてベルリン・フィル。Bオケはベルリン放送交響楽団である。もしかするとベルリン・フィルはSオケ(スペシャル)で、他は一段づつ繰り上がるのかも知れないが確認はしていない。

 私が招かれたベルリン交響楽団では、団員の欠席に際してエキストラを呼んだ場合、欠席した団員の席に座らせられ、そこでリハーサルから本番まで演奏するのであった。現に私は、トップ奏者の横で弾いたこともあるし、2プルートの表で弾いたこともあった。もちろん大編成のプログラムを実施するための増強エキストラの場合には別扱いとなる。

 日本ではトップ奏者のエキストラについは特別扱いであるが、トゥッティ(合奏要員)はことごとく末席となる。

 流石にベルリン交響楽団ではトップ奏者の仕事は一度も回って来なかった。すでにトップ奏者が二人いて交代でやっていたので、欠員をうめる必要がなかったのである。特別な演奏会以外に二人が揃うことはなかった。

 

 このオーケストラにエキストラとして来るようになって一番始めに興味を持ったのは、団員の中にタクシー運転手を兼職しているホルン奏者がいたことであった。彼は、いつも自分のタクシーで練習場や演奏会場へと乗り付けるのであった。

 その光景を目の当たりにした瞬間、「このオーケストラは本当にプロなの?」と思ったほどだったが、フィンケ教授からプロと聞いていたので信頼性は大いにあった。「もしや二流の演奏家は貧乏で内職をやらなければ食っていけないのか!」なんて勝手にシナリオを作ってみたりもしたが、然に非ず彼の演奏は一流であった。安定した温かい響きを持っていて、当時の日本の一流所と比べれば遥かにレベルが高い。思い掛けず微笑ましい光景を拝ませてもらった。

 

 入学当初の数ヶ月間で思いも寄らない様々な体験をさせてもらった。更にその中の一つを話してみよう。

 医師たちが寄り集まって組んでいたアマチュアの弦楽四重奏団があった。そこからフィンケ教授を介して、私に助っ人の仕事が舞い込んで来た。仲間のチェリストが病に倒れ、代役を仰せつかったのである。

 私は「所詮アマチュアだから・・・」と半ば馬鹿にして掛かり適当な気持ちで臨んだのであった。フィンケ教授の指示に従い、私は某医師のお宅を訪問した。

 医師と言うから恐らく豪勢な邸宅に住んでいるに違いないと想像しながら訪ねたのだが、これまた然に非ず、どちらかと言えば質素な生活感の漂う住まいであった。私たちのヴォーヌンクと大差はなかった。

 一人目の医師は、私を親しげに迎え入れると、直ぐさま居間へと導いた。そこにはすでに他の医師メンバーも揃っていて、弦楽四重奏のセッティングも整っていた。ただ一人、チェリストだけがいなかった。二人のメンバーも私を見るなり立ち上がり、やはり親しげに挨拶をしながら手を伸べて来た。そして全員の自己紹介となった。皆、穏やかで人柄が良く、むしろ地味なくらいの人たちであった。

 いよいよ練習が始まる。用意されていた楽譜はベートーヴェンの弦楽四重奏曲。もちろん私には生まれて初めて弾く曲であった。

 さて、四人が一斉に音を発した途端、そこに発生したのは、私が想像だにしていなかった豊かな音楽の世界であった。私は驚きの余り息を詰まらせてしまい、そして咄嗟に感じたことは、単に曲を弾けるか弾けないかと言うような問題ではなく、何かが違うと言うことだった。つまり彼等が音楽している姿勢やそこから表出される響きは、いわゆるプロフェッショナルであるとかアマチュアであるとかの領域を遙かに超越しているのであった。彼等はベートーヴェンの何たるものかを熟知しているのだった。状況のすべてを説明するのは困難なので言及は差し控えるが、まさにベートーヴェンなのであった。

 私は圧倒されるばかりで、悲しいかな、彼らが奏でる音楽には直ぐ様ついて行けなかったのである。そして自分自身の音楽に対する未熟さを痛感し、相手がアマチュアだからと馬鹿にして掛かった自分自身の未熟さを恥じるのであった。

 この体験は、私の音楽人生に大きな影響を及ぼしたとは明らかである。常に真摯であり謙虚であらねばならないことを、心に深く刻み込んだのであった。

 

 フィンケ教授を通して、コンサートの依頼が順次舞い込んで来た。コンサートの終了後には、必ず見知らぬ聴衆が楽屋を訪れ、温かい励ましの言葉を投げ掛けてくれた。

 分けてもベルリン音楽祭での演奏は、「卓越したチェリストである」と新聞紙上で評価された。確かターゲス・シュピーゲル紙であった。

 ホッペさんと言う未亡人が、自宅で五十人ほどの友人知人を集めて催すホーム・コンサートで、「あなたの音楽は日本人として独自の解釈を表わした一つの芸術である。多くの日本人は、皆技術的にレベルは高いがその殆どが物まねで終わっている。」と言われた言葉には驚いた。正直お世辞としか思えなかったし、自分の未熟さ加減は自ら充分に認識していた。しかし、それら言葉の一つ一つは、私に次なるステップへの勇気を与えてくれたことに間違いはない。

 

 ベルリンの聴衆は、演奏者が学生だからといって聴く耳を軽んずることはなかった。また無闇に褒めることもなかった。音楽芸術の名において、正統性を重んじていたのである。

 社会全体が一体となって構築して来た「見守る」「育てる」という音楽環境の在り方は、

おそらく類い希なものといえよう。ヨーロッパ諸国がそれぞれどのような考え方や在り方で音楽を推進していたかについて、私には詳しく知る術もないので断言は出来ないが、少なくともベルリンの音楽環境は他を大きく凌駕していたのではなかろうか。

 

 1974年10月1日から1975年9月30日までの期間、私はベルリン市より特段の計らいを賜り奨学金を享受した。

 家族の都合で帰国を余儀なくされ、1975年6月には卒業してしまったので三ヶ月分浮いてしまったことになるわけだが、奨学金は一括して銀行口座に振り込まれており、もしや返上すべきだったのかも知れないがそのままになってしまった。ベルリン市から未だ何の連絡もないので多分大丈夫なのであろう。

 奨学金については、実は国際事情によって日本からの送金が滞り生活に困り、フィンケ教授がベルリン市に申し入れをしてくれた結果なのであった。申請が通ってもお金を受け取るまでは時間が掛かったので、忽ちの生活費はフィンケ教授が用立ててくれたのであったが、これについてもまた返戻していないような気がする。記憶が定かではないが、とんだ不肖の弟子である。

 

 ドイツは、第二次世界大戦によって東西に分断され、西ベルリンは一夜にして壁に囲まれ『赤い海に浮かぶ陸の孤島』となった。そしてその壁は、忌まわしい戦争の事跡となった。

 かつて軒を連ねていた商店街や駅舎が、そっくりそのまま壁となっている所があった。コンクリートに固められた看板が、一枚の絵画の断片のように浮かび上がっていた。文字は色褪せてしまっていたが、しっかりと読み取れるほどで、むしろそれが戦争の悲惨さへの回顧を誘発していた。

 周知の通り、分断によってベルリン市民は悲劇を強いられた。親兄弟、友人知人が離ればなれになったのである。西側の市民が東側へ赴くのはさほど難しいことではなかったが、東側の市民が西側へ来るのは容易なことではなかった。東ドイツの政府は、厳戒態勢を定め、例え家族同士の面会であっても許可証を必須とした。だが一言で許可証とは言っても、簡単に下りるものではない。何ヶ月も前に申請書を提出し、厳重な審査を受けなければならなかった。もちろん受理されないことも多かったようだ。

 私たち夫婦がベルリンに来て、初めて身を置いた下宿の主人ツェパニックも、バナナやオレンジを抱え、時折東側に暮らす親戚を訪ねていたようだった。東側では、そのような果物の類は手に入りにくいものだった。いつも彼は朝早く出掛け夜遅くに帰宅していた。詳しい事情は聞けなかったが、余り頻繁に通うと相手方に支障を来す恐れもあったようである。

 

 私たちも数度、東側へ足を運んだ。それは楽譜の調達であった。楽譜が信じられないほどの安さで売られていたのである。私にとっては唯一気の利いた買い物であった。

 

 東側へ赴く人は誰しもが体験する検問。身体検査、所持品検査があった。入国条件は西の貨幣五マルクを東の貨幣五マルクに換金すること。いわゆる強制換金である。西の五マルクは、東の五十マルクに相当するかと思えるぐらい貨幣価値に格差があった。それゆえこの換金は、東側にとっては御の字と言うことになる。実にうまいことを考えたものである。

 利益につながるような観光客は、基本的に大歓迎であった。しかし下手な言動は慎まなければならない。しっかり見張られているのである。銃殺もあり得る国であった。

 貨幣価値が違うので、東側の銀行でお金を換金するとたちまち大金持ちになった気分になる。とは言え、多く換金してしまうと無駄になる。使い道がない、買う物がないのだ。

 一度だけだが、東側の一流レストランに入って食事をしたことがあった。その店で一番高い物を注文したが、いやはや不味くて食べられたものではなかった。

 東側で目を見張るものと言えば歴史的建造物であろう。博物館、美術館、劇場など貴重なものが多くあった。

 

 ある時、ミュンヘンに用事が出来て、車で向かったことがある。車は、なけなしの六百五十マルク(約6万五千円)で買ったボロボロのフォルクスワーゲンであった。西ベルリンからミュンヘンへ行くためには、どうしても東側を抜けなければならない。ところが、車での入国検閲には凄まじいものがあった。先ずはエンジンルーム、そしてトランクルームを覗き、次にガソリンタンクの蓋を開け長い針金のようなもので奥の方まで弄る。更に座席も取り外し、隅々までチェックするという念の入りようであった。

 私の車には、たまたま何も積んでいなかったので問題は起こらなかったが、隣で調べられていた人は何やらすったもんだ揉めていた。はっきりとは分からないが、西側の雑誌類を積んでいたのが原因だったようである。多分完全没収されたであろう。

 

 検閲を通過すると、忽ち出くわすのは東側の道路事情である。当然、主要道路を走行するわけだが、全くもって整備がなされていない。車が壊れてしまうのではなかろうかと心配するほど凸凹道であった。もともと安物のオンボロ車であったから推して知るべし、ベルリンとミュンヘンを往復して帰宅後、途端に車の調子が悪くなった。人手を借りて車体を押さなければエンジンが掛からなくなった。気の毒だったが、良く家内に押してもらったものである。そのあと、ついに運転席の窓ガラスまで落ちてしまい、修理費が捻出できないので窓にビニールをガムテープで貼って応急処置をした。走ればビニールがバタバタと鳴ってやかましく、冬場は寒くて最悪であった。

 

 東ドイツの道路に比べ西ドイツの道路は素晴らしかった。当時から日本でも有名だったアウトバーン(高速道路)は、噂通りの快適さであった。しかも無料だ。片道四車線が延々と続くのであった。

 私がボロ愛車で一番端の走行車線を限界速度(90キロギリギリ)で走っていると、ポルシェやベンツやBMWなどが追い越し車線を全速力で突っ走る。一瞬にして姿が見えなくなってしまうのだから、一体全体何キロで走っているのだろうか吃驚仰天であった。

 西ドイツのアウトバーンには規制最高速度はなかった。しかし規制最低速度はあったようである。確か60キロ以下で走ったら罰金と聞いた覚えがある。

 

 ベルリン郊外には、グリューネヴァルトやヴァンゼーと言う大きな湖がある。壁に囲まれ隔離されたような狭い領地であったが、美しい森があり湖があり、そして自由があった。ウィーンやパリのような素朴な抒情的風情は見られなかったが、それなりに整備された美しい街であった。どちらかと言えば大都会である。ただし東京のようなビルディングの乱立はない。戦争で破壊された部分が多く、それを上手に立て直したのである。西ベルリンは、積極的且つ計画的な復興を遂げたのであった。

 

 ベルリン時代の思い出はまだ山ほどある。思い付くままに書いているので、もしや混同している部分が多々あるやも知れない。話が前後してしまっている場合もある。

 いずれ見直し更に訂正するとして、取り敢えずここまでをベルリン生活の前篇としいたい。

 


 

(18)ベルリン その三

 

 エドヴィン・グランドウフスキーと私は、いわゆる店子関係にあった。それが、いつしか想像を越える友人関係へと結びついていった。初対面の時点で、彼が私のどんなところに着目したかは計り知れない。いずれにしても、二人がお互いのインスピレーションをもってごく自然に意気投合したことは確かである。

 このヴォーヌンク(住まい)に入居して以来、彼からたびたび呼び出しが掛かった。私は、決して断ることなく彼の部屋を訪問した。時には、彼を我が家へ招待することもあった。次第に友好は深まり、強い友情が形成されていった。

 

 エドヴィンは、幾つもの博士号を保つ学者であった。それゆえ話は屡々哲学的追究へと及んだが、私の拙いドイツ語では世間話的な会話からレベルアップできず、話の内容を深みへと展開させることは出来なかった。そこで登場したのが、またもや漢字であった。私たちは、いつしか会話を漢字で補うようになっていたのである。と言ってもそれは通常の中国語の取り扱いとは異なり、どちらかと言えば漢字を象形文字的に捉えると言う原始的なやりかたであった。エドヴィンと私にとって、ドイツ語と漢字は共通語となった。

 まさに苦肉の策だったわけだが、そう言うことが可能だったのは、実は彼の博士号の資格の中に中国文化哲学があり、漢学の素養に加えて漢詩をも理解していたからに他ならない。私なんぞのそれよりは遥かにレベルが高かった。

 

 思い起こせば、ウィーンでも少しばかりそのようなこともあったが、結果それとこれとでは趣旨が違う。まさかベルリンに来て、漢字がこのような形で役に立つとは思ってもいなかった。良く良く考えれば、滑稽である。白系ロシア人のエドヴィンと日本人の私が、そのように漢字を媒体として意思疎通を図ったのだから・・・。子供の文字遊びさながらとでも言おうか。しかし私たちは、むしろこのやりかたを大いに楽しんだのであった。

 話題はいつの日も尽きなかった。ドイツ語に翻訳された唐詩選を引っ張り出して原詩と比べながら論議したり、私が書いた詩を試しにドイツ語に翻訳し、それを種に文学論を戦わせたり、時には音楽論議にも花を咲かせた。お互いに見栄も体裁もなく語りたいことを語り、理解し合えたことは本当に有難いことであった。

 

 ここで話はまた前後するが、どうしても触れておきたいことがある。

「私たち、そろそろ日本に帰ろうかと考えている・・・」

 と、私が何気にそんな話をエドヴィンにすると、エドヴィンは即座に猛反対した。

「お前は日本に帰ったら苦労する。音楽家として不幸になるかも知れない。お前はきっと蔑ろにされるだろう。どうしても日本に帰るというのなら、西洋音楽は辞めるべきだ。」

 と、言った。

 エドヴィンは、日本がどのような国であり、日本の音楽界がどのような状況にあるのか、すでに周知し把握していたのである。

 

 また一方で、それとは異なる考え方もあった。

「日本の留学生は皆ドイツに留まり就職したがる。確かにドイツにはそれだけの土壌と環境があるのだから生活しやすいだろう。君たちがそのように切望するのは当然だと思う。しかし、ヨーロッパで学び身につけたものを日本に帰って活かし、日本の音楽状況を自分の手で改善しようとは思わないのか?」

 と、これは実はフィンケ教授の見解であった。フィンケ教授の見解はまさに正論である。私もその考え方に共鳴し実践したいのは山々であったが、ある意味それは理想論であり現実的には極めて難題に等しかった。余りにも美し過ぎる言葉であり、余りにも人間的過ぎる論理であった。

 例えば、私のように日本の音楽界に伝のない者にとっては、ドイツを引き払って帰国してしまえば、大海原に浮かぶ小瓶となるのは必定であった。

 父が「せめて音大を卒業してから渡欧を・・・」と言ったのは、そのことだった。

 

 かつて私に留学を勧めたのは大村教授に他ならないが、果たして私が日本に戻って演奏家として価値ある仕事ができるかどうかについては、恐らく半信半疑であったに違いない。

 現に私が最終帰国した際、

「君が望むなら、N響に紹介するが、多分あのオケの体質は君には合わないだろう。」

 と言い、私の方向性を見抜いていた。

 私自身も、もちろんその方向には興味を抱いてはいなかった。恐らく大村教授は、私がずっとドイツに留まって仕事をするであろうと踏んでいたのであろう。

 

 日本では、有名になる方策として売名行為がある。況んや金の力と政治の力を借りるという手立てがある。何もせずして順当に力量を評価されることは皆無に等しかろう。

 フィンケ教授が敢えてあのように言ったのは、私の帰国を促すためではなく、私の置かれている立場と家庭的事情を推し量ったうえでの励ましであったと思う。

 一方エドヴィンの反対はいよいよ極限に達し、

「お前がここに留まるなら何でもする。お前はこちらで生きるべき人間であり、こちらで活動すべき音楽家なのだから・・・」

 と、繰り返した。

 帰国後、十年が経ち二十年が経ち、年月を閲すればするほど後悔の念は募ったものの、エドヴィンの恩情に身を委ね万難を排しても留まるべきであったと思い悔やんだところで、成るようにしか成らないのが定めである。

 

 私はコンクールというものを経験していない。チェロを始めたのが余りにも遅かったので、実際技術的な問題が最後までつきまとった。せめて中学時代にチェロを始めていたらと思うこともあったが、これも今さら無い物ねだりをしても始まらない。結局、運命に身を委ねるしかない。

 

 高校を卒業する段になってこの道を選択し、以来必死の思いで頑張って来た。それによってある程度音楽というものが理解出来るようになり、またある程度弾けるようにはなったが、残念ながら最後までコンクールに挑戦できるまでには至らなかった。

 ある時、私はフィンケ教授に問い質したことがある。まだベルリンに来て間もない頃のことだったと思う。

「一流の演奏家になるためには、コンクール歴は必要不可欠なのでしょうか?」

 と・・・。

 フィンケ教授は答えた。

「コンクールの制覇は、確かにソリストになるための早道である。しかし、それが本物の音楽家の証となるわけではない。音楽は単に技術的な問題だけでは済まないのだから・・・。どんなに名のあるコンクールで優勝し、一時的に名声を博し持て囃されたとしても、琴線に触れる独自の音楽を生み出さない限り、誰も本物とは認めない。どんなに技術があっても大概のソリストは短期間で淘汰されてしまう。実際、コンクール歴がなくても優れた音楽家はたくさんいるし、因みに私自身もコンクール歴は全くないが、私を二流の音楽家とは誰も言わない。」

 

 確かにそうかも知れない。しかしそれは、西洋音楽というものを真に理解しているヨーロッパ諸国における論理であって、やはり日本ではどう足掻いても通用しない。とにかく日本ではコンクール歴がモノを言う。コンクール歴のない音楽家は、飽くまでも三文音楽家という取り扱いになってしまう。またそれと共に音楽界に伝のない者も、どんなに切磋琢磨しようと徒労に終わるのが必定である。

 日本人は、真の音楽の在り方を知らない。いや、求めようともしないし探ろうともしない。それゆえ音楽家は、表面を取り繕い、物まねと自己満足に浸っていればそれで済んでしまう。音楽評論家も然り、ほとんど同一と判断し得るもっともらしい語彙を並べ立て意気揚々としている。人材を育てようとする姿勢とは思えない。

更に職業音楽家も多い。人間飯を食わねば生きられないが、惰性というのは恐ろしい。

 

つくづく感じるのだが、日本の国民の大半は生活する上で西洋音楽を必要不可欠なものとはしていない。そんな中で若き才能ある音楽家は何を発露して行けば良いというのか。終始自己満足に浸り、流れに身を任せていればそれで良いということであろうか。

 

 1974年8月、結婚四年目にして長男が誕生した。

 フィンケ教授や知人のお世話で、家内はベルリン大学病院で診察を受け出産した。逆子状態だったので帝王切開になるかも知れないと医者に言われ危惧したが、結局切開することなく無事出産した。ただし臀位出産だったので家内は相当苦しんだようである。

 ベルリン大学病院ではまさに完全看護であり、持参すべきものは何一つなかった。何から何まで、下着の類まで支給された。母乳も順調に出て、むしろ他の人より多かったので、別の乳児にまで提供したほどだったと言う。ささやかな貢献とでも言おうか、家内の母乳を得て育ったドイツ人がどこかに存在しているということになる。

 

 ベルリン大学病院では、何不自由のない安心且つ快適な入院生活を送った家内であった。その後退院となったが、入院中に十分過ぎるほど出ていた母乳が自宅に戻った途端に出なくなった。不安が急に襲って来たようである。日本に居れば、実家の母親や親類縁者が何らかの面倒を見てくれるわけだが、ベルリンには子育てのプロセスの中で我が儘を言える身内はいない。

 もちろん折に触れ何かと助けてくれる友人知人はいたのだが、やはり身内の気安さとはどこか違った。私にとっても初めての子供で、育児の知識もままならず右往左往するばかりであった。このような時、男というのはまったく役立たずである。

 

 家内の母乳が出なくなり、私は粉ミルクを買いに走った。独和辞書を片手に、ミルク缶に記してある説明文を必死になって解読しミルクを作るが、とんと要領を得ない。その手の説明文というのは、表記表現が簡略化されているのでドイツ語であろうが何語であろうが理解し難いところがある。たとえ日本語であっても勘違いしそうになることがある。

 とりあえず、私はそれらしいものを作った。

「ミルクの濃さはどうか?」

 と家内に聞く。

「一応ミルクの味がしているので大丈夫かも・・・」

 と言うので、それを息子に与える。

 腹が減って泣いている息子は、ミルクを飲めばたちまち静かになる。しかしどうにも眠りが浅い、直ぐに泣き出す。

「きっとまだ腹がへっているんだ。」

 と、判断する。

医者から忠告されたように、ミルクのやり過ぎはけっして良くないと知りつつ、ついついやってしまう。朝昼晩、夜中も眠れない。いよいよ変だというので保健所の育児相談室へ行くが、病気ではないらしい。

「ミルクはどのようにやっているのか?」

 と聞かれるので、ありのままを話す。

 案の定、それでは一回分多いのでやり過ぎないようにと言われる。頭をかしげながら指示通りやるが一向に改善されない。計量器に乗せて見れば、ほとんど体重が増えていないのだ。

 ふと脳裏に、ハテナマークが浮かび、私はもう一度独和辞書を引っ張り出して念入りに説明書を解読することにした。そして何と、ミルクが薄かったことに気づく。当初の解釈に間違いのあったことが判明したのである。粉の量が大幅に少なかったのだ。乳児が成長するために必要最低量の栄養は摂取できていたので辛うじて助かったわけだが、一瞬冷汗ものであった。

 息子は、適量を与えるようになってからというもの、打って変わってすやすや眠るようになった。むしろ次の授乳時間が来ても起きやない。息子の寝顔には満足感の色合いが満ちていた。

 ドイツでは、授乳間隔が日本とは少し違っていた。乳幼児が、夜間に一番ながく良く眠るように考えたやり方であった。いわゆる親の育児による精神的且つ肉体的負担を軽減することが重要視されていた。育児には、夫婦の精神状態、分けても母親の精神状態が何よりも大切であるという論理が基調となっていた。授乳時間はもとより、ベビーベッドや布団の状態、部屋の温度や照明などにも充分な配慮を施し、乳幼児を寝かしつけた後に夫婦が外出できるようにすることも肝要であるとされていた。

 私たち日本人には、そのやり方に馴染みがなかったので始めは戸惑ったが、ドイツに住む限りはドイツのやり方に従おうと決めたのであった。「なるほど!」と、それは正解であり納得できた。お蔭で私たち夫婦も、夜の外食やら音楽会、映画鑑賞へも出掛けられるようになった。

 あの忌まわしいミルク騒動を除けば、他には何の問題も起らずに育った。

 

 前にも書いたように、出産から育児に関わる費用はすべてベルリン市の社会的援助と学生保険によって賄われた。この至れり尽くせりの支援には、深く感謝すると共に心からの敬意を表すものである。

 

 息子のベルリンでの出生については、ベルリン市役所で届出をした。よって本人の意思とは関係なくベルリン市民となる権利を得たことになる。今43歳になる長男が、もしベルリンに住みたいと言えば、記録が残っていればだが手続きは簡単かも知れない。

 出生届に当たり、もう一つ面白い経験をした。市役所の窓口で渡された出生届の用紙を見てびっくり。名の記入欄が信じられないほどの余白となっていたのであった。つまり、姓を記入する欄が一行に対し、名を記入するスペースが圧倒的に多かったのである。

 疑問に思った私は、職員に尋ねた。

「この膨大な余白はいったい何ですか?」

 すると職員は、

「名を好きなだけ登録することができます!」

 と言うのだ。

 親は、自分の子供の名を思い付くままに幾つでも書き込んで構わないのであった。子供がいずれ成人した際に、自分が自分で自分の名を決められるようにと、多肢選択法が取り入れられていたのである。そうしておけば戸籍の書き替え手続きが不要となる。もし一つしか登録していなければ、本人が物心ついてそれが気に入らないと言った場合、戸籍を変更することが厄介になる。

 果たしてその制度が、現在もなお継続されているかどうかは知らない。しかし、人間の人格と言うものを可能な限り尊重しつつ、諸制度を構築しているドイツの国家的社会性に私は感服するばかりであった。

 そして、戦後の復興における社会的意味をより深く認識するのであった。

 

 この(十八)を後編としベルリン篇を終えるつもりでいたが、ベルリンについてはもう一頻り書きたいことが残っているので、次回へ繰り越すことにする。

 


 

(19)ベルリン その四 そして惜別・・・

 

 ベルリンでのことは、もう三十数余年も前のことである。すでに時代は推移しており、私の書くことは当時のそれとは幾分異なっているかも知れない。しかしドイツに於ける基本的な国威の在り方については、決して変わり様がないものと信じている。それは、私自身の芸術に対する理念の原点となっているからに他ならない。

 そして私の記述のすべては、自分自身が使命としている西洋音楽、つまりクラシック音楽を取り敢えず基調とするもので、ジャズやポピュラー等々の分野とは直接的関りを持たせてはいない。しかし、それらは同じ音楽の分野であり、クラシック音楽と無関係であるとは言わない。すべてはいずれ繋がるのであるから・・・。

 

 私はすでに数十年来、こうして日本の片隅で日本の政治下に暮らしている。そしてこの中で、ドイツにおける文化構築が如何に秀でていたかを改めて認識し、且つまた深く共感を覚えるのである。

 人間にとって最も重要な生活の基盤となるべき社会性について、あるいは真の文化の在り方について考える時、国の格差の問題が浮かび上がる。第二次世界大戦で負けた諸国の歩みの中で、西ドイツの成し遂げたものは計り知れず大きかったと言えよう。

 

 この連載では少し先の場面で登場することになっているが、ここで敢えて話の引き合いに出して置くとしよう。

 私は、演奏から身を引き群馬県太田市における『おおた芸術学校』に奉職したわけだが、敢えて言うが決して音楽家から身を引いたわけではない。

 勤務し始めてから三年ぐらい経った頃のことだと記憶するが、【弦楽器製作学校】の併設を提案した関係で、楽器製作の街として歴史的に名高いドイツのマルクノイキルヘンと姉妹都市提携を結ぶべく、交渉のためにドイツへ渡ったことがあった。その際、仲介の役割を担ってくれたのはT(義兄)で、彼と共に現地の市長を訪問する必要性が生じたためベルリンに立ち寄ることになった。そして思いがけずベルリンを訪れたわけだが、いやはや数十年振りのこと。その折はただ通りすがりのような恰好だったので、ベルリンの様子をじっくり探索する時間は得られず、ちらっと見まわす程度のことで終わった。

 諸国と同様、巷の近代化は目立っていた。しかしドイツという国の在り方については、昔と何ら変わってはいないと感じた。国威の根本理念というものが、そう容易く変容するとは考えにくい。

 

 戦争や天災による災害を被り、立て直しを余儀なくされた都市は少なくなかろう。

 例えば日本でも幾多の復興を余儀なくされて来たはずである。そんな時、果たして日本の政府は文化と言うものを優先しつつ取り組んだであろうか。国民のための社会構築を第一義として考えたであろうか。政治経済を中心とした外見的建設作業にのみに集中したのではなかろうか。

国家の経済性は確かに重要である。しかし、国民の生活のバロメーターとも言える文化、つまり社会正義や社会福祉などに繋がる制度や、そして更に心の栄養に繋がる芸術分野への関与は、どれほどなされたであろうか。

 

 世界の歴史は、まさしく戦争の連続である。侵略戦争、宗教戦争、様々な主張が繰り広げられた。傍から見れば、そこにはどちらが正しいと決定づけられる手立ては何もないのである。正義は一つではないようだ。

 問題は、そのようにして戦争を行ったことによって、何を学び、何を反省し、何を構築するかにある。

 

 国威とは、本来文化が主流となって発揚されるべきものである。政治経済がどれほど発展しようとも、文化に裏打ちされない国威はけっして発揚たり得ない。文化の欠如は、政治家の自惚れと自己満足を増長させ、結果的に国民を恐怖の領域へと巻き込み兼ねないのだ。

 「国民は、徹頭徹尾、犠牲者とならざるを得ないのか?」これも日本の現実社会の在り方を象徴する一つの課題である。

 或いは、日本の国威が未だに確立されないのは、もしやそれとは別の問題が絡んでいるからなのかも知れない。いわゆる国民自体の人間としてのレベルの問題もある。自由への認識、主体性への定義、道徳への規範、そうした人道的な在り方の不明確さがすべてをねじ曲げているようにも感じる。民主主義国家を掲げているわりには、民主主義に対する認識が極めて乏しい。

 今や普遍化したインターナショナリズムと言うものが、もしも偽善的な形勢でしかないのだとしたら、それはいずれまた大きな悲劇を招来することになろう。アメリカナイズだけでは、真のナショナリズムは成就できまい。機械文明に流されていては、人間の心は衰退するのみである。

 

 ドイツでは、復興の時点からすでに文化精神を重視していた。そして更に伝統の保守のみに留まらず、見事な都市建設をも成し遂げたのである。人間に優しい社会を構築し、確たる芸術の神髄を定着させた。

 

 ベルリン音楽大学では週一回、カリキュラムの枠としては二時間、オーケストラの授業があった。通常は指揮科の教授や講師、時には学生がタクトを執っていた。ところが、時折世界的な指揮者がやって来ることもあった。

 私が在学中にお目見えしたのは、ズービン・メータとダニエル・バレンボイムであった。音楽的感覚の好き嫌いは別として、実際に彼等が振ると音響が一変した。そういう不思議な現象を直に体験したのはそれが初めてのことだった。以前から、指揮者によってオーケストラの音が変わると言うことは人伝に聞いていたが、それを認識し得る体験は一度もしたことはなかった。一流のプロ・オーケストラに入らない限り、そのような巨匠クラスの指揮者の下で演奏するということは考えられないのだ。

その意味で、たとえ一度でも学生時代にそういう体験が出来たことは感謝である。

 ズービン・メータもダニエル・バレンボイムも、大学側から高額なギャラで雇われて来たわけではない。恐らくベルリン・フィルの定演などに招かれたついでの厚意だったに違いない。そういう教育的配慮を実践する大学の在り方に感謝し、ベルリン市の行政の在り方に敬服するのである。

 

 私は、十六歳の時に軽自動車免許を取得した。今から五十年ほど前には、日本に軽免許というものが存在していたのである。今や知る人は少ないかも知れない。いつの間にか廃止されていた。

 祖父の会社に教習所を経営している知り合いがいたので便宜を図ってもらい、しばし通った。免許取得後は、スバル360(当時テントウムシと呼ばれていた)の中古を買ってもらい乗り回した。

 浪人中、葉山の御用邸近くに住んでいた芸大講師の家まで時折レッスンに通っていたが、大きなチェロを抱えて長い時間電車に揺られて行くことを考えれば、大いに助かった。かなり安物だったのであちこちに欠陥があり、一番目立つものとしては助手席のシートが欠損していたことである。だがむしろそれは好都合であり、その空き部分にチェロがすっぽり収まったのだ。

 

 さて、又してもこうして急に自動車免許の話を出したのには理由がある。実は、ベルリンで普通免許を取得した時の顛末を書いて置きたいのだ。

 16歳から保持していた軽免許は、音大受験やら入学やら、あれやこれやあって書き換えるチャンスを失っていた。ヨーロッパへ渡った後に期限切れが判明したが、いずれにしても日本に放置したままだったので役には立たない。

 ウィーンに渡って以来数年と言うもの、車がなくても不便さを全く感じることがなく、すっかり忘れていたのだ。ところがベルリンへ移籍して生活が軌道に乗り始めると、学生とは言え演奏の仕事も増えチェロを持って動き回ることが多くなった。そしてやっと自動車の必然性を感じた次第である。

 

 私は、思い切って近所にあった自動車教習所へ通うことにした。教習所とは言っても十数個のパイプ椅子が並べられる程度のスペースしかなく、日本の教習所のようなご大層な教習コースなどは一切なかった。交通法規や運転の心得の講習をある程度受ければ、即路上となった。

 教習所の社長は教官を兼務し、夫人は事務を担っていた。いわゆる社長兼小使という形の零細企業とでも言おうか。

 教官兼務の社長は、ハンガリー人であった。ベルリンに来る前は、何とハンガリー国立管弦楽団でトランペットを吹いていたと言う。私がベルリン音大でチェロを勉強している学生であることを知ると、彼は途端に嬉しがり、直ぐに音楽の話題で盛り上がった。

路上教習中であろうと、のべつ幕なし音楽の話をした。街頭に立つ広告板に演奏会のポスターを見付けると、あれは好い演奏家だとか、あれは有名だが音楽はつまらないとか、教習とは思えない情況であった。

「ほら、あれあれ!」

 とポスターを指差す。

 私に運転の経験があったから良いようなもので、いったい初心者だったらどうしたものだったか・・・。

 とりあえず運転の方は何とかなると踏んでいたが、実のところ筆記試験については自信がなかった。果たして自分のドイツ語力で上手く回答出来るものか、大いに不安であった。イチかバチか、賭けるしかなかった。ところが予想外が起きた。すんなり合格してしまったのであった。

 ペーパーテストはすべてがマルバツ式で、日本に良くある引っ掛け問題は皆無。落とすための試験ではなかったので救われたことになる。しかし、一緒に受けたドイツ人が落第したのには驚いた。何がいけなかったのか、実に不思議だ。

 

 免許証は、即刻その場で交付された。ドイツの免許は永久的に更新する必要がないと聞いていたが、今はどうなっているだろう。その時にもらった免許証は未だに所持している。パスポートと同じ大きさで二つ折りのものだ。白黒の顔写真はすっかり色褪せ、手書きの文字はぼやけてしまっている。本当に永久的に使えるのだろうか。

 日本へ戻る際には、ベルリンの警察で国際免許証を発行してもらい、後日それを持って日本の警察へ赴き書き替えてもらった。

 

 義兄がベルリンにやって来たのは、私たち夫婦がまだツェパニック爺さんの下宿に厄介になっていた時分であった。1973年5月頃だったと記憶している。義兄は、やはりしばらくの間ホテル住まいをしながらアパート探しをしていたが、なかなか良い物件が見つからず、結局ツェパニック爺さんの紹介でどこかの屋根裏部屋に納まったのだった。

 その後、私がベルリン音大へ通うようになり広いヴォーヌンクへ転居した際、彼もそこで一緒に住むことになった。一年足らずの同居だったかと思う。

 この時、中古のフォルクスワーゲン(カブトムシ)を購入。義兄はまだ来たばかりで、割りと懐具合が良かったので協力してもらい購入できた次第である。

 車庫などは一切不要。だから車庫証明と言うものはなかった。当時ヨーロッパでは路上駐車は当たり前で何の問題もなかったが、今はどうなっているだろう。

 

 義兄は、児童心理学が専門で、日本における修士課程を完全取得した後の留学だったので、私の場合と違いすべての単位が有効となった。

初めの一年間はゲーテ・インステテュートでドイツ語を学び、その後ベルリン自由大学へ入学した。彼も、ベルリンでは数々の恩恵を被った人間である。

 趣味でやっていたコントラバスも、自由大学に入学してからアマチュア・オーケストラに所属して継続した。そんなことで、私も彼の所属するオーケストラのコンサートに足を運んだことがある。

 最も印象に残っているは、名称こそ忘れたが古い大きな教会で催されたコンサートであった。聴いたのはブルックナーの音楽であった。アマチュアとは思えない荘厳な響きを醸し出していた。

 あの医者が四人で結成していたアマチュア・カルテットの姿勢に感動した時と同様、オーケストラ団員の取り組みにも真摯さを見た。彼らは、プロ顔負けの精神を持ち音楽に心骨を注いでいた。趣味だから適当にやれば良いというような気軽な姿勢は微塵も感じられなかった。

 そこに足を踏み入れた義兄も、日本では露と味わえなかった感動を享受したと言う。

 

 私たち夫婦がベルリンを去った後も、彼は残った。いずれは帰国するであろうと踏んでいたが、いつの間にか美しいドイツ人の女性と知り合い結婚をした。以来数十年、今もなおベルリンで暮らしている。私には誠に羨ましい限りだが、彼の賢さと精神力と忍耐力がそうさせているのだと思う。日本との文化交流や文化の橋渡しを担いつつ、今でも活躍している。

 当たり前と言えば当たり前だが、もはや驚くほど流暢なドイツ語をしゃべる。その代わり日本語はというとやや怪しくなった。本人は気づいていないかも知れないが、けっこうドイツ語訛になっているのではなかろうか。

 

 そして、またもや話は前後してしまう。

私たちと義兄が同じヴォーヌンクに暮らすようになったその年の夏のことである。両親が、義兄を追うようにしてベルリンへやって来た。大正生まれの老人二人が、良くもまあ異国の地へ来る気になったものだと感心した。無論、最初で最後のヨーロッパ訪問となった。

 母にしてみれば、単純に義兄や息子夫婦に会いたい一心であったと思う。

 片や父の理由はふるっていた。

 「分厚く塗り固められたヨーロッパの歴史的建造物、壁、それを直に観ないことには本物の絵は描けない。」

 と、理由をこじつけていた。

 ずっと同居していた義兄の存在は、両親にとって実の子同然であったから、彼がいなくなって急に寂しくなったに違いない。

 

 はて、私たちが両親をどのように迎え入れたか、どうも余りはっきりしない。確か、私と家内と二人で電車に乗ってフランクフルト空港へ行き出迎えたのだと思う。そしてその日は四人で空港近くのペンションに泊り、翌日電車でベルリン入りしたような気がする。

 とにかく、両親は無事我が家へ到着した。一件落着であった。一応三ヶ月ほどの滞在が予定されていた。

 久し振りの一家五人、全員の顔ぶれが揃った。大瓶(一升瓶ほど)のイタリアン・ビヤンコを買って来て祝杯した。

 父は、その安くて量のあるイタリアン・ビアンコ(スパークリング・ワイン)が殊のほか気に入ったようであった。大いに飲み、且つ気勢を上げた。かつての一家団欒が甦った。

 

 昼間は、例のおんぼろフォルクスワーゲンで西ベルリンを観光して回った。一度だけ東側へも赴いたが、あの厳重な検問にはびっくりしたようだ。

 

 事件はその後に起こった。両親の喧嘩騒動である。このことは今でも鮮明に思い出す。取るに足りないことで口喧嘩となり、父が一人で先に帰国し、母が残った。

 二人の口喧嘩は昔からのことなので慣れてはいたが、いやはや遠い異国の地に来てまでやるとは思わなかった。父は単純で頑固一徹なところがあり、言い出したら聞く耳を持たないところがあった。

 滞在中、一人では一歩も外へ出ず、要するに一人で外出するのが怖かったに過ぎない。

 一方母は、

 「ちょっとポストへ行ってくるよ」

 と言って気軽に散策に出掛けたものだ。祖父母宛てにちょくちょく手紙を送っていたようだ。

 

 「酒の飲み過ぎ!」

 とか、

 「たまには一人で外を歩いてみたら!」

 とか、

 そんな母の小言に腹を立てた父は

 「うるさい、カバチが多い。俺は帰る!」

 となってしまったのである。

 

 結局父は、たかだか一ヶ月足らずで帰国してしまったことになる。後で聞けば、祖父母のことが気に掛って仕方がなかったようでもあるが、何とも迷惑な話だ。

 母は、父から「勝手にしろ」といわれながらも、大凡二ヶ月ぐらいは滞在していたことになる。しかし、いずれにしても予定より遥かに早い帰還となった。

 「いつまでも亭主をほっといて、何やってんだ!」

 と、親戚連中からやいのやいの言われ、母はやむなく帰国することになった。

 

 父が帰る時には、良い具合にJAL便が取れ日本語が通じるので安心出来たが、母の時は外国便となってしまったので、ことのほか不安は大きかった。ロンドンの空港で母を見送った時、無性に涙がこぼれた。

 とにかく、母を無事飛行機に乗せなければならなかった。そこで私は、同乗する日本人を探し出すことにした。航空会社のカウンター前で、日本人が現れるのを待った。確率のほどを考える余裕などなく、ただひたすら現れてくれることを祈るばかりであった。

 まさに偶然である。たった一人、日本人女性が現れたのであった。

 「すみません。母を一緒に連れて行って頂きたいのですが・・・」

 私は頭を下げ事情を説明し、母を託した。その日本女性は二つ返事で快く承諾してくれたのである。親切な日本女性との偶さかの遭遇・・・運命女神に感謝であった。

 

 この一件で、私は日本における因果関係の不条理性について認識を新たにせざるを得なかった。先進的な感覚や考え方を持っていた芸術家の父であったが、やはり明治を引き継いだ大正の感覚から逃れることは難しかったようだ。もちろん母も同様のえにしである。しかし、一方で《母は強し》の一面を垣間見せてもらった。

 

 両親の滞在中、私の脳裏をふとかすめるものがあった。

 「いっそのこと両親にはこのまま日本を離れ、皆でベルリンに永住しよう!」

 と、やれやれ突飛な発想ではあったが、実現不可能な話ではなかろう。敢えて言えば、本音であった。

 

 1975年6月、ベルリン音楽大学を卒業。8月中旬に帰国することになる。それまでの約二ヵ月は、住まいの片付けやら荷造りに追われた。

 帰国旅費の足しにと、売れる物はすべて売った。わけてもキャノンの一眼レフ(F1だったか)は高く売れた。その他ベビーベッドやベビーカーなどの小児用品、拾い集めた家具などの処分に奔走した。

 

 ある日、そうした雑多な日々の中で、ベルリン交響楽団から一通の招聘状が届いた。突然のことだったので、私は一瞬ハタとしたが、ベルリン交響楽団には何度もエキストラとして呼ばれていたので、よくよく考えれば招聘状が送られて来るのは不思議なことではない。私が卒業試験を受け卒業した時点で、オーケストラには自動的に伝わっていたのであろう。

 

 丁度、その頃のことである。ベルリン・フィルの第一コンサートマスターとして長年活躍したシュヴァルベが、一人の優秀な日本人の弟子を自分の後継者に据えるべくベルリンに呼び寄せていた。そしてベルリンを訪れたY氏は、誰に聞いたか知らないが、奥方と連れだって私たちを尋ねて来たのである。

 「ぜひこのヴォーヌンクに住みたいのです。」

 と言う。

 家主にそのむね話をして欲しいと頼まれ、無下に断る理由もないので私はさっそくエドヴィンに掛け合った。ところがエドヴィンは頑として承知してくれない。

 極めて機嫌が悪いのだった。

 「お前たち以外の日本人を住まわせるつもりは毛頭ない。たとえその人がどれほど優秀であり有名であろうと私には関係ないし、興味もない。」

 と言うのだ。

 もしやこの件は時期尚早だったかも知れない。少し遅らせて、私たちが去った後に直接頼んだ方が賢明だったかも知れない。

 

 エドヴィンが、私たちの帰国に相当不満を抱いていたことは十分に理解していた。彼の心映えには、今もなお限りなく感謝している。

 

 ベルリン交響楽団から届いた招聘状のこともあり、もう一度考え直す術はあった。残ろうと思えば残れた。決して不可能ではなかった。しかし、子育てを日本でやりたいと言う家内の強い願いを汲み、また孫を抱きたい言う母の気持ちを汲み・・・

 「日本に帰って来ても飯は喰えんぞ」

 と言う、父のその言葉の裏側に隠された心境を推し量りながら、最終結論を下したのであった。

 

 そして更に私の脳裏を掠めるものは、『赤提灯』に馳せる思いであった。親友I君と再びの交遊も待ち遠しく思っていた。もしも私が日本酒を好まない人間であり、将又たった一人の親友すら存在していなかったとしたら、帰国の決意は大きく揺らいでいたかも知れない。

しかし、やはりどう転んでも私たちは日本人であり、この事実を曲げることは不可能である。

 

 私たち夫婦は、一歳になる長男を連れ帰国の途についた。果たしてこれからどのような音楽家生活を営むことになるのか・・・無限の危惧を抱かざるを得なかった。それこそエドヴィンの助言ではないが、場合によっては西洋音楽を捨てる覚悟もあった。

 而して、我が愛すべきあの『フーテンの寅』と化す構えを心に秘め、あるいはトラック野郎に変身する構えをも携えていた。

 


 

(20)帰国

 

 西ベルリンは、私にとって第二の故郷とでも言っておこうか。多くの学びと多くの感動を享受し、自分自身の可能性をも予想以上に発揮させることが出来た。その音楽環境は、私にとって唯一の糧となり、「願わくば永住したい」とさえ思った。

 しかし、私たちは西ベルリンに別れを告げた。結局、日本人という名のちっぽけな殻から抜け切れなかったことになる。

 

 テーゲル空港からルフトハンザ便でフランクフルト空港へ行き、そこからJAL便に乗り継ぎ日本へ直行した。

 JALの機内では、乗客席の一番先頭の窓側を確保した。一歳児がいるということで、JALのオフィスがそこを薦めてくれたのである。足下が広く取ってあり、更に幼児用にしつらえた籐の籠を目の前の壁に取り付け、幼児をそこで寝かし付けられるようになっていた。丁度私たちの座る胸の高さにセッティングされていたので、誠に都合が良かった。

 ただし、一つだけ問題点があった。客席はすべて同じ向きになっているわけだから、まさしくその籠だけがすべての客席と相対する格好になっていた。それゆえ、もし幼児が立ち上がれば乗客の視線をもろに浴びることになる。幼児が寝ていたり座っていたりしている分には然したる問題はないが、ひとたび幼児が立ち上がれば動物園のお猿さん状態になるわけである。

案の定、息子は置かれた状況の面白さにはしゃいでしまった。全乗客を恰も観客と見立てているかのように・・・。息子は喜びを露わにし、気勢をあげながら戯れ始めた。私たち夫婦はたちまち赤面状態に陥り、慌てふためきながら必死に息子を宥めるのであった。

 さてさて、見せ物は取り敢えず一度だけで済み助かった。息子も段々と機内の環境に慣れ、その後は安泰であった。取り敢えず快適な空の旅となった。

 そして、無事羽田に到着した。

 

 渡欧する前、実家は町田市成瀬にあった。最寄りの駅は小田急線の玉川学園である。

 父が自ら設計して建てた家がそこにあった。三百坪ほどの敷地に民芸風の木造二階建ての母屋があり、同敷地内に女子大生のためのアパートも建てられていた。

 母屋は、骨組みがすべて四寸角以上の純正木材を使って建てられ、横の梁も太かったがそれに輪を掛けて凄かったのは、家の中心を突き抜ける太い大黒柱であった。大人が両腕をまわしてやっと抱えられほどの太さがあった。

 柱という柱にはオイルステーンが塗られ、壁は漆喰であしらわれていた。江戸時代の武家屋敷を再現したかのような家屋であった。昔気質の初老の棟梁がコツコツ手塩に掛けて造った一軒だった。棟梁は、稀にみる腕の良い匠であったようだ。随所にさりげない細工も施され、見事な仕上がりを呈していた。聞けば大黒柱はその棟梁がどこかで見つけて持って来たものらしい。

 アパートの方はごく一般的な二階建てで、キッチン付きの四畳半が全部で八部屋あり、各階に一カ所ずつトイレ・風呂・広い洗い場が設けられていた。大学生にとっては、恐らく申し分のない住居であったに違いない。

父が、玉川大学の女子生徒に貸すことを前提として建てたものであった。

 

 しかし父は、私たちがヨーロッパ滞在中に、自らの夢を注ぎ込んで建てた母屋を売却していたのだ。買ったのは、あの森英恵の妹夫婦だったらしい。

アパートだけが残され、果たしていつからそうなっていたのか知る由もないが、義弟夫婦が管理人という名目で一階の四部屋を使って住み、二階の四部屋を引き続き女子大生に貸すという状況になっていた。

 帰国した私たちの落ち着く先は、取り敢えずそのアパートしかなかった。義弟夫婦には申し訳なかったのだが、四部屋の内の二部屋を片づけてもらい、私たち三人の当座の住まいとしたのであった。

 

 さて、父がその母屋を売らねばならなくなった理由だが、何を隠そう私の楽器を買うためであった。

このことについては、後に楽器を手放すことになった経緯を綴る場面で詳しく書きたい。

 

 アパートでの仮住まいは、およそ半年ぐらいだったか思う。義弟夫婦との共同生活が段々煩わしくなって来たのも原因の一つであったが、それより何より仕事を探すのに不便さを感じ始めたし、親友I君の近くへ行きたいという願望もあった。

 そしてその後、中央線沿線の三鷹駅付近に借家を探し居を移した。木造平屋建ての二軒長屋で、六畳二間に二畳ほどの上がり框のある古い借家であった。

 ほぼ線路際に建っていたので、電車が通過するたびに長屋は少し地震のように揺れた。当時は、まだ中央線も本数が少なかったから良かったようなものの、今だったら堪ったものではなかろう。最近、その辺りを電車で通過した時、窓越しに見回してみたがすっかり変わっていて、私たちが住んでいた長屋らしきものは陰も形もなかった。見えるのは、鉄筋コンクリートのビルや有料駐車場である。

 

 さて、しばしその三鷹時代のことに思いを馳せてみよう。

 そもそも三鷹に居を構えたのは、親友I君がそこに住んでいたからに他ならない。家を探すにあたって、I君はアパートとかマンションとかを薦めてくれていたが、私は古くても良いから一軒家にしたいと言い張ったようだ。自分で不動産屋を回り、結果そのボロボロの二軒長屋に決めたわけだが、帰国早々仕事もなく収入の当てもない状況を考慮すればやむを得ない選択であった。

 

 I君一家とは、家族ぐるみの付き合いとなった。

 仕事は、殆ど彼の計らいによって得られ、自動的にほぼ同一の内容となり行きも帰りも一緒が多く、言わずもがな毎度毎度の居酒屋三昧となった。稼いだ金は、即酒代に変わったような気がする。

 彼の奥方と私の奥方は、同い年の子を持つ親として、また同じ類の亭主を持つ妻としてこれまた意気投合し、仲良くしていたようである。亭主らが仕事へ行っている間、お互い行き来していたようだし、演奏旅行で長期不在の時にはお互いお泊りもしていたようである。恐らく、飲んだくれの亭主に対する愚痴が氾濫していたに違いない。

 

 因みに、私ら一家の住まいは下連雀にあり、彼ら一家の住まいは上連雀にあった。JR中央線を挟みほぼ相向かいの立地条件にあり、今となってはつまびらかではないが、ガードを潜ったか、或いは高架橋を渡ったか、とにかく線路を越え行ったり来たりした。その距離たるや1キロ足らずであり、歩いてわずか10分足らずであった。線路の向こう側、或いはこちら側で落ち合い、しょっちゅう飲み歩いた。

 

 前にも書いたように、大村教授の話に耳を傾けN響の席を確保してさえいれば、家内に生活苦を強いることはなかったであろう。何ものにも束縛されず自由でありたいと言う、私の単なる思い上がりと我が儘がすべてを狂わせてしまっていたと言える。

 ベルリンを去る前に投げかけられたエドヴィンの忠告通り、日本に戻れば途端の苦しみを余儀なくされることになった。場合によっては音楽を捨てる覚悟もあったが、差し当たって親戚に対する体裁もあったし、簡単に音楽を放棄するわけにはいかなかった。とにかく行き着くところまで行くより他なかったのである。

 

 音大を一年で中退し渡欧、日本の音楽界で一寸たりと仕事をしたことがなく、まさに右も左も分からない雛状態であった。そんな私を支えてくれたのは、言うまでもなく親友I君であった。

 I君は、右往左往している私を見るに見兼ね、幾ばくの仕事を紹介してくれた。それが切掛けとなって、お陰様で徐々に生活の安定が図られるようになって行ったのである。

 殆どオーケストラのエキストラ稼業で、都内の三つか四つのオーケストラを掛け持ちした。ある時、これはもっと後のことになろうが、都内の某オーケストラから常任指揮者の意向ということで副主席の話が舞い込み、また北の方のオーケストラからも首席の話があった。後者については私がまだベルリン在住中にも出ていた話で、海外公演で訪れたそのオーケストラがミュンヘンで公演を行った際に音楽主幹からもたらされたものだったが、帰国後改めて誘われた形になった。しかし私は、それらをことごとく辞退してしまった。全くもって馬鹿な男だ。

 

 1976年5月12日、帰国の翌年である。私は、日本における第一回チェロ・リサイタルを開催した。会場は日経ホールであった。

 私がベルリンでやっていたのは、すべて公的依頼の演奏会(リサイタル)だったので、自主リサイタルを行うということが当時の私には良く理解できなかった。しかし日本では、一握りの名だたる演奏家を除き、リサイタルというものは自主で催すのが通例であった。恐らく今もなお、この状況は変わっていないのではなかろうか。

 このリサイタルについては、確か誰かに勧められてその気になったような記憶である。

 

  I君が、いつしか音楽事務所を始めるようになっていたので、私はリサイタル開催の相談を持ち掛けてみた。

  日本の音楽事務所というのは、通常いわゆる各種手数料を取って音楽会の事務的な手伝いをするだけで、チケットを売りさばくわけでもなく、ただ各売り場に配布するだけである。リサイタルが成功しようと失敗しようと無関係であり、一切の責任を負うものではない。

 つまりそうした自主リサイタルというものは、事務所として請け負ったとしても金にはならない。わずかな泡銭にしかならないのである。事務所を大きく運営するためには、外国から著名人を招聘するしかないというのは自明の理である。

 

 無名演奏家が日本で知名度を上げる方法としては、音楽事務所を通して各音楽関係に働きを掛け、その上で大枚をはたくか政治力を利用するかの選択となる。

 そして、例えばリサイタル後に有名ホテルの大広間を借り切ってレセプションを開き、著名な音楽家や評論家や雑誌記者を招待し売り込むという算段である。日本の音楽界では、それは日常茶飯事あり、まさに芸能界並みである。

 私の場合、当時祖父は創設した会社で会長を務めていて辛うじて健在だったし、更に囲碁界の重鎮であった大伯父(名誉9段)の関係で政治家との繋がりもあり、賢く考え何をかしようと思えば何とでもなったはずである。しかし私はそれを避けてしまった。

 

 帰国第一回チェロ・リサイタルでは、I君が親友の誼で忙しい時間を割き、また私のわがままを聞き入れながらも協力してくれたのであった。すべての段取りをお願いし、ステージマネージャーも担ってもらった。音楽事務所としては、私の考え方では決して成果につながるものでないことを承知の上で、動いてくれたのである。

 祖父関係や親類関係の伝を辿ってチケットを捌き、何とか赤字にならない程度でリサイタルは終了した。

 

 私は、自分の主義を貫くべく飽くまでも売名行為は避けた。恐らく音楽事務所の運営は、依頼者の姿勢によっては大きなメリットへと繋がる可能性があるろう。もしその時、私がI君にすべてを任せ、何らかの得策を講じていれば、もしや一石二鳥の成果が得られたかも知れない。勿論私の力量では何をしても無理だったかも知れないが、そこはさておき、通例を考えればあり得ない話ではなかった。そのことは、今なお思い返すことがある。賢明さと冷静さ持ち、しっかりした自意識を持ってさえいれば、彼に迷惑を掛けたままでは終わらず、両者にとってより良い成果が得られていたのではなかろうかと反省している。

 「売名行為をしてまで知名度を上げたいとは思わない。リサイタルは、純粋に自分自身を磨くための方法論だ!」

 傍から見れば、まさしく青二才と映るに相違ない。しかし私は、ずっとそれを貫いて来た。

 それでは何故、それずっと貫き通さねばならなかったのか、強いて言えば、第1回帰国リサイタルに於いて、I君に自分のすべてを任せる勇気がなく、売名行為を避けたいという己の主義主張に囚われ、唯一の意義あるチャンスを逃してしまった後悔の念、そしてその悔恨の証として生涯I君以外の人間には私の生き様を預けまいと決意したのである。爾来、現在に至ってもなお、誰に頼ることなく自分が一人で出来る範囲の活動にのみ終始した次第である。

 

 第一回リサイタルは、言うまでもなく無事終了した。そして親友I君との比類ない交流に浸りながら、ごく普通の音楽生活に埋没したのであった。

 その頃、家内のお腹の中には第二子が宿っていた。

 


 

(21)私の出生、そして父の生き方を顧みて・・・

 

 1947年(昭和二十二年)12月23日、神田東松下町一番地で私は産まれた。第一次ベビーブームの時代と言われ、また団塊の世代とも言われている。

 四軒長屋の六畳一間の一室で、初老の産婆に取り上げられたそうだ。

 

 終戦直後の混乱期にあり、東京は極度の食糧難で誰もが飢えを余儀なくされていた。栄養を十分に摂取出来なかったので、母乳は僅かしか出なかったと言う。粉ミルクの入手も困難を極め、母は私にジャガイモを擂り潰した汁を与えたのだそうだ。

 空爆により焼け野原と化した東京では、その日暮らしの浮浪者が溢れ、誰もが仕事探しに躍起になっていたと言う。絵描きであった父は、取り敢えず店の看板やら銭湯の壁画やらを描いたりして日当を稼いだが、まさしく生活は火の車だったと言う。

 飢えを凌ぐために父が考えた苦肉の策は、巷をさまよいどこかで鶏のガラを分けてもらい、それを家に持ち帰って鍋で煮出して一週間分のスープを取り、毎日朝昼晩と麺類を食べたと言う。あわや一家心中のところまで追い詰められたこともあったらしく、この私とていつ死んでもおかしくない境遇にあったわけだが、人間の生命力というのは凄い。良くぞ生き残ったものである。イモの汁と鶏ガラスープが効を成したのかも知れない。これぞまさしく、井伏鱒二の『鶏肋の精神』である。

 

 その後、父は朋友の紹介によって某出版社との関わりを得、本の装丁やポスターなどを手掛けるようになった。安部公房がまだ出版社の編集に携わっていた時代であった。詳しくは聞いていないが、しばらく安部公房と一緒に仕事をしたそうである。

 またその時期、『園田高広・第一回ピアノリサイタル』のポスターを手掛けたこともあったと言う。

 園田氏本人から注文があり、

「ショパンの横顔をモチーフにデザインして欲しい。」

 とのことだったらしい。

 

 クラシック音楽なるものは、もともと貴族か資産家のお稽古ごとであった。金銭的余裕がなければ手掛けられない分野であり、一般人には程遠い世界であった。その意味で、戦後の混乱期にありながらクラシック音楽のリサイタルを開催すること自体、極めて特異なケースであった。

 以来十年、二十年、三十年と年月を積み重ねるごと、日本にもクラシック音楽が普及した。『空前のクラシック・ブーム』とまで言われるようになった。しかし、本当だろうか。本当に世間一般に広く浸透したであろうか。私にはそうは思えない。残念ながらそれは思い込みであり、実際には空回り状態である。数十年前の金持ちのお稽古ごと状態から何も成長していないのではなかろうか。

 

 果たして日本に、どれだけの音楽愛好家が存在しているであろう。国の人口から割り出せば、恐らくほんの一握り、いやほんの一摘み程度でしかんないのではなかろうか。

戦後六十年にしてこの程度の割合である。更に言えば、そうした数少ない貴重な音楽愛好家ですら、クラシック音楽の上面だけを舐めて自己満足に浸っている。もしも、本質を極めようと努力している音楽愛好家がいるとしたら、それは極めて稀少に違いない。

 また日本の多くの音楽プロモーターは、音楽愛好家の心理を巧みに掴んで興行を行っている。外国から有名人を誘致し過剰宣伝して売り出す。日本人は特に有名人に弱いので、いとも簡単に引きずり込まれる。確かに、良いものは良いに決まっている。しかし日本では、それよりも先に成すべき大事なことが山ほどあるように思う。

 

 クラシック・ブームの仲間入りをしたとされる一般の人々、この人々は一体クラシック音楽をどのように受け止めているのであろうか。もしや、都会の喧噪に蔓延するBGM的感覚で接しているのではなかろうか。果たして主体性をもって西洋音楽と対峙しているだろうか。傾聴する演奏に対し、自分自身の解釈と判断によって評価しているだろうか。もしや評論家の言動に同調してはいないだろうか。

 本物の音楽家が日本で育たないのは、そう言うところに原因があるように思う。いつまで経っても、本当の意味の普及へとは繋がって行かないのである。

 この国では、クラシック音楽の必要性は皆無と言っても差し支えなさそうだ。見栄や体裁で取り上げたとしても、自己満足を増長させるだけで決して理想的な結果は望めまい。それならむしろ日本古来の風流、侘び寂びをもっともっと大切にした方が良さそうである。

 

 ついつい余談が長くなってしまった。現在の日本に見られるクラシック音楽の傾向と実態を掻い摘んで書いてみた。しかしこれではまだ中途半端である。このまま終わらせてしまうのは不本意なので、順次突き詰めて行きたいと思う。とにかく話を元に戻すことにしよう。

 

 私が産まれて数年と言うものは、まさに貧困を極めたわけである。が、悪いことばかりではない、段々と父の仕事が軌道に乗り危機一髪のところを回避できたのであった。

 その後、神田東松下町から杉並の善福寺へと移転し、六畳一間の長屋よりは少しマシな一軒家を借りたと言う。しかし、私たちがそこでどのような暮らしをしたか、もちろん神田東松下町でのことと併せ、善福寺でのことも私の記憶には全くと言って良いほど残ってはいない。ところが不思議なことに、たった一つだけはっきり覚えていることがある。それは、時折父に連れられて善福寺池へ行き、そしてバケツいっぱいのザリガニを捕って家に持ち帰り、醤油で煮込んで家族三人で食べたことだ。子供心に余程楽しかったのであろう。

 生活状態については、わざわざザリガニを捕って来て食べたぐらいであるから、やはり貧乏であったに違いない。もしかして魚なんぞも捕って食べたのかも知れない。

 

 父が少年漫画を描き始めたのは、多分その善福寺時代だったと思う。どのような経緯でそうなったかについては詳らかではないが、父の描いた少年漫画は思ったより早く売れたようである。そしてほんの一時期ではあったが、漫画家として一世を風靡したようだ。

 漫画が売れ、収入が上がるにつれ住居を転々とするようになる。先ずは善福寺の借家から西荻窪近くの大宮前五丁目へと移転した。それは私が幼稚園に入る直前のことであった。父は、そこにヨーロッパ風のバンガローのような小さなアトリエを建てたのであった。確か小学二年生頃までそこで暮らしたと思う。

 そして次に、世田谷の千歳船橋へと移転。アトリエよりも遙かに住まいらしい二階建ての家を建てた。凡そ七年ほど暮らしたであろうか。父が漫画家生活に終止符を打ったのはこの家であった。

 

 定かではないが、昭和二十七年頃から昭和三十五年頃までの間だったと思う。私が中学生になる頃まで、少年漫画を描いていた。

 『黒帯三四郎』『さつま剣次朗』『決戦せきが原』『火星特急』などの短編、『たから島』『ジャングルブック』などの世界名作長編漫画シリーズ、他多数を残している。私の名前を筆名として使っていたので、古本屋でもし『瀬越憲』の文字を見つけたら、それは父の描いた漫画である。当時、それらを読みあさった少年たちは、今やもう老境に入っていよう。

 父は、もともと筆が立つ絵描きだったようで、出版筋から線の美しさを買われ、加えて物語の構成力と内容の温かみが定評だったらしい。

 少年漫画を描くようになったのは、取りも直さず飯を食うためであったが、漫画を描くことによってある程度の財を成したのであった。

しかし、漫画家として売れれば売れるほど、父はジレンマに陥るのであった。

 

 小学館、講談社、集英社と各社を掛け持ちしていたので、締め切りに追われる毎日が続いていた。編集者が家に入れ替わり立ち替わり押し掛けていたことを、私は鮮明に覚えている。いわゆる原稿の取り立て催促である。父は逃げ回り、編集者は追いかけると言う有り様であった。

「主人は、いませんよ!」

 と母が言えば、編集者はむしろ躍起になって、図々しくもつかつかと家に上がり込み、各部屋を一通り物色して回ったり、見つからなければ挙げ句の果ては便所や天井裏まで覗くと言う始末であった。

 出版社にしてみれば期日までに本を出さなければならないと言う切羽詰まった事情があり、それゆえ編集者は必死であった。ついに埒が明かないとなれば、出版社は最後の手段として父を拘束監禁するしかなくなる。結局父は出版社近くの旅館に缶詰となり、編集者に監視されながら昼も夜も寝ずに描く羽目となったのである。酷い時にはヒロポン(覚醒剤の一種)まで打たされたと言う。今では大きな犯罪であるが、まだその当時はそう言う非道が許されていた時代であった。

 

 ある日、父は言った。

「私は漫画を描くために生きているのではない!」

 と。

 それは悲痛の一言であった。父の心の中の葛藤が如何ばかりであったか、誰一人として知る由もなかろう。この私とて、当時はまだ中学生であったし、ただ推測するしかないのだ。

 

 さて、父が漫画家として頂点に達した頃のことであった。秋山何某なる評論家がもっともらしい教育論を振りかざし、少年漫画の廃止論を唱え始めたのであった。もちろん人物を特定して発した言葉ではなかったが、

「漫画は、子供に害を与えるので、廃止すべきである!」

 と吹聴したのである。

 当時の漫画は、昨今の漫画のように過激な表現は微塵もなく、むしろ夢に満ちた内容のものばかりであった。痛烈無惨に少年漫画を叩いた秋山何某は、果たして昨今の漫画をどのように見ているのであろうか。今でも何か批判めいたことを宣っているのであろうか。

 車の運転中、たまにラジオで女史の声を聞くことがある。未だ健在で評論家業をやっているようだが、昔ほど気勢は上がっていないように感じた。

 

 先日、たまたま目に付いた話題であるが、ついでに書いておこう。日本の某外務大臣が、肝煎りで『世界漫画大賞』なるものを設置したそうである。これは、例えば国際交流のために必要不可欠なものとして考え出したものなのか、或いは海外に向けて経済的発展を誇示したいがために発したものなのか良く解らない。眉唾ものとは言はないまでも、大いなる疑問が残る。

この国の政治家たちは、一体何を考え何を求めようとしているのであろうか。またしても言うが、それよりも先にやるべき大事なことがあるのではなかろうか・・・飽くまでも経済って、か!

 

 評論家とは、最早あらゆる分野において存在しているが、本来国を改善し正当化すべく真理の追究を担っているはずである。ところがこの輩は、往々にして自分自身を棚に上げて人のケチをつける。創造性の欠片も持たずして人の創造にはケチをつける。適当な対象物を見つけて弄んでいるに過ぎないのだ。まさしく独り善がりの論説を繰り広げて悦に入っているとしか思えない。それが飯の種なのだから仕方がないと言えば仕方がないが、敢えて言うなら、もっともらしい綺麗事を並べ立て大衆の関心を引こうとしているだけである。然程に日本の大衆は騙し易いと言うことになろうか。もしや、無知蒙昧な評論家を叱咤し得るような、頭脳明晰且つ強靱な精神力を有する真の評論家はいないものかと言いたくなる。

 願わくばだが、国民の一人一人が有能な評論家であって欲しい。殊更に名文を用いて論説を公に発表する必要はない。ただ、日常生活の最中にあって、是々非々を正しく見極められる人間であって欲しいのである。

 極論かもしれないが、物事に対し正しい評価をくだせるのは、やはり派閥に帰属しない一般大衆なのではないかと思う。しかし一般大衆の多くは、残念ながら碌でもない評論家の思い付きに隷属してしまう傾向があり、且つまたいずれかの派閥に帰属したがる傾向にあるようである。このことは、結局、自分さえ良ければよいという考え方に繋がり、ついては利権の構図へと絡まって行くのだ。

 この国には、果たして本当の意味での主体性と道徳性と自由性と言うものはあるだろうか。

 

 父は、秋山何某なる評論家の発言を切掛けに漫画界からきっぱりと足を洗った。自宅にアトリエ兼スタジオを構え、誰よりも先にアニメ映画の制作に取り組もうとしていた矢先であった。しかし父は、女史の痛烈な漫画批判に屈して辞めたわけではない。貧乏時代に飯を食うための手段として漫画を描き始めたとは言え、少年たちに漫画を提供することに誇りを持っていたし、内容について些かも罪悪感を持つようなものではなかった。その当時、漫画の影響で非行に走った子供が実際にいたのであろうか。

 

 恰も正当であるかのように自分を誇示し発言する輩に、父はうんざりしたに過ぎないのだ。長い間のジレンマから解放されたいと言う意識が、そこで一気に爆発したことになろう。

ある意味秋山何某の発言は、父にとって踏ん切りを付ける起爆剤となったのかも知れない。

「無駄な抵抗は無用。何もしないのが一番。何をかしようとすれば人を傷つけ、また自分も傷つかねばならない。」

 と父は良く言っていた。

 秋山何某に反論する気は毛頭なかったようである。父の気質を考えれば、そう言うジレンマさえなければ、恐らく漫画家仲間と共に毅然として戦ったに相違ない。後輩には手塚治虫もいた。

 

 そう言えば、今ふと思い出した。ある時、公団住宅の建設に伴って仮設された飯場に、父がケツをまくって怒鳴り込んで行ったことがある。(いつも着流しを着ていた父である。パンツは履かない主義であったから、凡そケツをまくりればどうなるか・・・)

原因は、私たちの家があった住宅地界隈で夜中に大騒ぎし迷惑三昧していた荒っぽい連中がいて、その連中が飯場に寝泊まりしていることを突き止めたからであった。父は単純に怒り浸透して、身のほどもわきまえず彼らと張り合おうとしたのであった。母と二人、家で冷や冷やしながら父の帰りを待った覚えがある。

その結果だが、一般のおっさんが突然一人で怒鳴り込んで来たので、むしろ連中の方が吃驚して身を引いてしまったようだ。大したことには及ばず幸いであった。『飯場怒鳴り込み事件、一件落着の顛末記』である。

 

 父が漫画家を辞めた後、父の才能を見抜きある出版社から童話画家への誘いがあった。また更に二科会や国画会などの画壇からも同人の誘いがあった。しかし、父は断り続けた。芸術分野におけるセクト(派閥)を極端に嫌っていたし、売名行為も忌み嫌っていたからである。

 功成り名遂げた実業家を親に持ち、囲碁界における大御所瀬越憲作名誉九段を伯父として持っていたのだから、何をかしようと思えば何でもできたはずである。しかし父は、そうした嘉徳をもいっさい利用しようとはしなかった。

 また、周りからやいのやいの言われ、しぶしぶ個展を開いたこともあったが、

 「私は絵を売るつもりはない!」

 と言い張り、周りを落胆させたりもした。

 「今さら純粋絵画を目指したとて、まともな絵が描けるわけもない。一度手を汚してしまったらお仕舞いなのだ!」

 父は酒を飲みながら、良くそんなことを語っていた。

 世間は、恐らく父のような生き方を嘲笑うに違いない。何を好きこのんで貧乏くじを引くのかと・・・。挙げ句の果てに、奇人変人の烙印が押されてしまった。

 

 漫画家としての現役時代、父は数人の内弟子を抱えた。門下にして欲しいと言う若者が入れ替わり立ち替わり訪れたが、殆ど脱落して行った。そんな中、たった一人だけ父の教えを最後まで受け継ぎ、父に可愛がられた弟子がいた。彼は、父の漫画に魅せられ、九州の熊本から中卒で上京し父のもとに来たのであった。父から正統的な線画を学び取った唯一の弟子であった。

 私が小学四年生から中学三年生になるまでの間、彼も同じ屋根の下で共に暮らしたのである。それゆえ私と彼は、未だ兄弟同然である。

 いずれ彼も独立し、やはりほんの一時期であったが漫画界に名を連ねたことがある。そのまま続けていれば、父を凌駕する漫画家になっていたかも知れない。だが、結局彼も父と同じように漫画を辞めてしまった。実は、彼に漫画を辞めるよう奨めたのは父だったのである。恐らく父の心情としては、才能ある彼を漫画家で終わらせたくなかったのだと思う。彼はまだ二十代前半の若さであった。

「今の内に美術学校へ行って勉強すれば純粋画家になれる、決して遅くはない。ぜひ方向転換すべきだ。」

 と父は提案したのである。

 父の忠告を率直に受け止めた彼は、数年間、某美術学校へ通った。そして、デッサンを完璧にマスターし終えたのである。彼は現在、一流の仏画家として大成している。

 

 言うまでもないが、私は今もなお父を心から尊敬している。たとえ人から無名の三文絵描きと言われようとも、芸術の名においてその純度は崇高なものであったと確信している。

 芸術家の命題とは、本来そうした純なる心の領域にこそ存在しているのだと思う。

 

 汚れのない生き方が皆無と言っても過言ではない世の中である。名を馳せるためには手段を選ばず、騙し騙されるのは日常茶飯事の戯れ言のようなもので、結果として騙される方が悪いのだと言う。皆、ことごとく流れに甘んじ、上位に媚びへつらい、当たらず障らずの生き方をしている。結果的に馴れ合いや癒着が氾濫し修復困難な状況になった。誰しも自分が可愛いのだから仕方がない、背に腹は代えられないのであろう。だから、鵺(ヌエ)のような輩が蔓延るのであろう。

 そして、所詮芸術家も同義語である。芸術分野においても、ことごとくエンターテインメント化し、まさに商業ベースに填ってしまった。有名になることが第一の目的であり、且つまた金銭的見返りが主流となっている。エンターテインメント化すれば、まさに多くの大衆を引き込めることぐらい誰でも分かる。しかし誰が、それを人間社会の誇り高い文化として評価するであろうか。

 飯が食えてこその芸術には違いないが、やはり節操を守ることも大切である。その意味で今こそ、国が威光をかけ文化国家の構築に取り組まなければならないのである。

 

 日本は、第二次世界大戦でアメリカに敗れ、以来アメリカに完全迎合した。もしや日本を主体性の乏しい国にしてしまった原因はそこにあるのかも知れない。

 三国同盟で共に戦い負けた国々がある。周知の通りドイツとイタリアであるが、この両者は果たして日本のようにアメリカナイズされてしまったであろうか。私自身、学者ではないので断言することは出来ないが、これを機会にもう一度世界史を紐解いてみたいと思う。

 

 私がクラシック音楽を志したのは、まさしく運命だったと思っている。父の血を受け継いでいるのだから、父に似た生き方をしても可笑しくはない。しかし、残念ながら私には父ほどの一徹さもなく、才知もないのだ。純粋に生きたいと言う思いはあっても、ことごとく裏目に出てしまう。うっかりしていると騙され、裏切られ、やることなすこと成就できずに終わってしまう。

 クラシック音楽の分野で純粋に生きるということは、強いて言えば孤立を意味している。父の言葉ではないが、私のような者は何もしないでいるのが賢明のようだ。そうすれば他人に迷惑を掛けることもなく、自分自身も傷付けられずに済むと言うもの。

 

 音楽には、二つの宿命がある。先ずは、『聴衆あっての物種』と言うことだ。文学や絵画は、どちらかと言えば個人的作業であり、幽閉にあっても自己の世界を構築し作品を残すことができる。しかし音楽の場合、一人だけでは何も成立させることができない。楽譜に刻まれた作品は演奏者がいなければ表出できないのだし、演奏者が表現しても聴衆がいなければ価値は生まれない。舞台芸術と言う意味では、演劇の分野も同じことが言えるのかも知れない。

 そして、次なる問題は音である。音は、一瞬にして消え去ってしまうものであるがゆえに、誠に儚く切ない媒体である。音楽を聴いて人は感動する。そしてその感動はその場で脳裡に記憶される。しかし、記憶と言うものは飽くまでも記憶でしかなく、瞬時にして幻と化してしまうものである。音そのものが、もしも文学や絵画のようにオリジナルのまま残すことができるなら、同じ感動を何時でも何度でも味わうことができよう。嗜好も無限となろう。しかし悲しいかな、生音は残せないのである。

 今や電気機器が発達し、録音と言う技術はかなり高いレベルへと到達している。しかし、生の息吹を伝えることは絶対に不可能である。

 また音楽は楽譜によって保存される。しかしそれは一般の人々にとっては単なる記号でしかない。文学における活字や絵画における筆致とはまったく異なり、楽譜から直に内容を捉えることは専門家でない限り不可能である。更にクラシック音楽では、他の音楽と比べ極めて内容が複雑であるから、楽譜が読めないとなれば尚更理解し難くなるのである。

 様々な角度から考察するに、クラシック音楽を純粋芸術の領域へと高めるためには、或いは優れた音楽や音楽家を生み出すためには、真の文化環境と心豊かな精神性の高い音楽愛好家の存在が必要であることは言うまでもない。

 

 音楽会は、舞台に立って音楽を成就する音楽家の存在と、それを取り巻いて音楽を鑑賞する愛好家の存在とが相まみえる場所である。顔見知りもいれば、アカの他人もいる。一見単純な風景のようであるが、実は対人間の関わりにおいて極めて複雑な状況を形成している。多くの人々が一堂に会すると言うことは、実に計り知れない意識が行き交うことになる。それぞれが互いを意識し合うことで利害関係が発生し、弥が上にも傀儡が出現する。そしてそれは、いつしか『演奏』と『鑑賞』の純粋なる営みを崩壊してしまうことにもなりかねない。クラシック音楽の本来あるべき姿から逸脱し、その向こうにある大切な幻影を見失ってしまう恐れもあるのだ。狡猾なのは、果たして音楽家の側か或いは音楽愛好家の側なのか・・・。

 この分野は、見せかけやハッタリが通用する。捉え方を誤れば大いなる危険を孕むのである。もしや世間は、それを『虚構の中の真実』と言うであろうか・・・。社会の仕組みが一朝にして変えられない以上、理想的な環境が整うまでには気の遠くなるような時間が費やされることになろう。

 


 

(22)新たな出発へ

 

 『帰国第一回チェロ・リサイタル』は、取り敢えず無事に終了した。I君を核とし、身近な友人や知人、親戚筋の協力を得て約六百席の日経ホールはほぼ満席となった。しかし、チラシや音楽雑誌による演奏会案内を見て訪れた観客は皆無に等しかったかも知れない。

 

 ドイツにおけるリサイタルでは、友人知人親戚を頼る必要もなく、また私自身がチケット販売で気を遣うこともなく、それでもそれなりに観客が集まった。プレイガイドの月間案内を見てきた人々である。そのうえ終演後には、必ず数名の見知らぬ人々が楽屋を訪ねて来て、その誰もが何らかの言葉を投げ掛けて行ってくれたものであった。日本ではそのような状況は皆無と言ってよかろう。

 

 又もや経費を節約し念を入れた宣伝もせず、最低限の経費で開催したリサイタルであるから、音楽関係からの反応がないのは当たり前ということになる。別けても無名であることは、日本に於いては無反応の決定的要素となる。

 前にも書いたが、名を売るためには一流ホテルの豪勢な大広間を借り切って一大レセプションを開き、そこに著名な音楽家や評論家や記者などを招待しおもてなしをするのだそうだ。もちろんこれについては殆どの場合、金持ちでなければ成し得ない領域であるからして、当然次元が違う話となる。しかし、少なくとも案内状と招待状ぐらいは名立たる評論家に送付すること、それは成すべき最低限のことだと言われた。つまり何らかのアプローチをしない限り相手にされないと言うことである。また、音楽専門雑誌に批評を書いて欲しい場合には、案内状と招待状だけではなく事前にそれなりの金品を渡しておくこともあるらしいが、恐らく今はもうそう言った不条理は無くなったに違いない。

 

 お金を掛けずにリサイタルを行うという発想は、殆ど自己満足に等しいとしか言いようがなかろう。しかし例え自己満足であろうとも、己の研鑽のためには必要不可欠なものである。そしていつの日か正当に実力を認識してもらい、ギャラの発生するリサイタルができるようただひたすら祈るしかないのだ。

 

 その後しばらくして、東京バロックアンサンブルの主宰者から誘いがあり、メンバーに加わることになった。いわゆるこれもI君の紹介によるものであったと思う。フルート、オーボエ、ヴァイオリン、チェロ、チェンバロという編成のアンサンブルであった。手元に数枚ほどチラシが残っているが、何故か月日と曜日と開演時間が記載されているものの年号が入っていない。よって【演奏年表】に記載できものではない。

 

 当時、NHK/FMで『夕べのリサイタル』とか『午後のリサイタル』とか言う番組が放送されていて、東京バロックアンサンブルも何回か出演している。間違いなく数回放送されたが、その資料も残っていない。NHKに尋ねれば判るのかも知れないが、だからと言ってどうと言うことでもない。

更に弦楽トリオなど、大阪出身のプレイヤーと組んだアンサンブルでもNHK/FMで収録出演した。もしや録音したものがカセットテープで残っているかも知れないが、どこかに埋もれてしまっている。ひっくり返して探すほどのものでもない。面倒くさい。

 東京バロックアンサンブルの仕事は数年間続き、その合間に他の室内楽の仕事もあったが極めて少なく、ソロの仕事の依頼などは皆無といって良い。

 それより、都内あるいは地方のオーケストラからもたらされるエキストラの仕事が順次増殖し、いずれ幾つものオーケストラを掛け持ちするようになって行った。かなり強行軍なスケジュールをこなすまでになったが、私にとっては確実かつ大切な収入源であった。

 勿論、これらの仕事についても言うまでも無く、I君に紹介されもたらされたものであった。彼とは一緒の仕事が多く、当時彼が山形交響楽団でチェロ・セクションのトップを担っていたので、山形の仕事は殊の外楽しかった。地方へ行っても酒三昧で、大騒ぎをし羽目を外した。

 

 1976年9月20日、三鷹の小さな開業医で二男が産まれた。親友I君がそこを紹介してくれたのであった。O医師は、三鷹フィルでチェロを弾いているアマチュア奏者であった。

 家内の陣痛が激しくなり、いよいよ出産・・・。慌てて医師のもとへ駆けつけた。

医者は、

 「まだまだ、産まれるまでには時間がある!」

と言って私を居間に通し、そこで思いがけず音楽談義となった。同じチェロ同志なので話は弾んだ。診療時間がとっくに過ぎていたのだから、すでにO医師は晩酌を始めており、私もそれに肖りご相伴にあずかった次第である。チェロを弾く人には酒飲みが多いと聞いていたが、まさにその通りかも知れない。確率が高い。

 

 小一時間も経ったであろうか、看護婦を兼務するO医師の奥さんが現れ、

 「もうそろそろですよ!」

 と言った。

 「それじゃ、ちょっと行ってきます。そのままゆっくり飲みながら待っていください!」

と言いながら、医師は診療室へ赴いたのだった。

 O医師の言動があまりにもさり気なかったので、

 「あ、はい!」

と私は軽く返したのだったが・・・良く良く考えてみれば、それまで医師は少なからず酒を飲んでいた訳で・・・私の脳裏にはたと一抹の不安がよぎるのであった。しかし私にはどうすることも出来ない。取りあえず先ほどまでのO医師の様子を思い浮かべ、けっして酩酊はしていなかったことを自分自身に言い聞かせ、そこはとにかく信頼し任せるより他ないのであった。もしもO医師が千鳥足状態であったなら、とんでもないことである。

 診療室の方向から、産声がかすかに聞こえてきた。無事、二男坊は誕生したのであった。

 

 私たち一家は、二男の誕生をきっかけに移転を決行した。二軒長屋の狭苦しい暮らしから遂に脱却。三鷹と武蔵境の間に八幡町というところがあり、そこに二階建ての一軒家を借りた。しかし、この移転にはもう一つの理由があった。

  父が漫画家時代、缶詰状態を強いられ編集者から無理矢理ヒロポンを打たれ仕事をさせられたことについては前にも述べているが、実はそれが原因で後遺症を発覚させたのである。この類の病はかなり後になってから症状として現れることがあるのだそうで、いわゆる幻覚症状となる。専門的なことは分からないが、強迫観念と言われるものであったろうか・・・。そんな父を、母と二人だけで長野の山中に生活させている訳には行かず、引き取り同居を余儀なくしたのであった。

 

 父はことのほか長野の山間部を愛していたので、東京へ戻ることにはかなりの難色を示したのだが、事情が事情であり叔父叔母にも説得に加わってもらい強引に上京させたのであった。予期せぬ同居生活を最も喜んだのは母だったと思う。

 そうして三世代生活が始まった。しばらくの間は、時々行方不明になる父の具合を気遣いながらの日々であったが、それなりの一家団欒を過ごし母を和ませた。ある意味、楽しい三世代生活だったように思う。いっとき杏林大学病院の精神科に入院していた父も、幸い少しずつ健康を取り戻し、恢復して行った。

 

 そんな新生活の中、私は殆どオーケストラの仕事に明け暮れた。地方への巡業も度々ありスケジュールは満杯であった。

年に一度のことだったが、12月となれば「第九」の花盛り。一ヶ月の中で本番を二十数回も熟したことがあった。来る日も来る日も掛け持ちの本番。いわゆるぶっつけ本番というやつで、オーケストラが変わろうと指揮者が変わろうと、リハーサルをパスしてOKだったのである。まさに日本ならではの現象であろう。

 

 自主リサイタルは、如何に多忙であっても必ず年に一回は実施しようと心に決めていた。第2回チェロ・リサイタルは1977年3月22日、イイノ・ホールであった。相変わらず経費節約の方策を執り、而して何一つメリットを生むものではなかった。自分自身への挑戦であった。

 

 オーケストラの仕事が強行軍を強いられる中、父は「オーケストラの仕事は手が荒れるからほどほどに・・・純粋な絵描きが漫画を書くのと同じだ!」と言っていた。確かにオーケストラの仕事では弾き方が粗雑になってしまう。自分の音が周りにかき消され聞こえなくなるから乱暴になる。それが手を荒らす原因と言うわけだ。

 「しかしそんなことを言っている場合ではない。家族のため生活費を稼がねばならない立場である。」

と言ってしまえば、何だか同情物語になってしまいそうだが、決して忌むべき事柄ではないのだ。私にとって社会の不条理や不本意は、ある意味自らが抱える音楽家としての迷妄を払拭し得る唯一の手がかりであり、音楽に対するささやかな理想郷への波形の維持となっていたのである。つまり希望という名の一種の誇りの温存であった。

 それゆえリサイタルは不可欠であり、心の糧であった。リサイタルは、決して不純な行いであってはならないと思っている。

 

 1978年6月15日、3回目の自主リサイタル、石橋メモリアルホールで行った。

 この時、どこで聞きつけたか、当時群馬交響楽団の音楽監督であった遠山信二氏が予告なしに突然現れた。

 「群響に来て欲しい!」

 と言う。

 終演後、楽屋でのことであった。初対面にもかかわらず、温厚そうな様子で少しも堅苦しさを与えないふうに、一連の社交辞令を述べた後にそのように切り出した。

 実は、その少し前あたりのことである。同楽団に在籍していた友人、彼も国立音大時代の同級生なのだが、度々入団の誘いを受けていた。しかし私は、「エキストラなら構わないが団体に所属するのは好まない・・・」と、はっきり断っていたのである。

 その彼が、音楽監督に私のことを密かに話していたらしい。知るよしもない私は、まさか音楽監督が直々来るとは思ってもいなかったので、正直驚き且つ恐縮した。

 不意を突かれた私は、

 「いや、突然そのようにおっしゃられても・・・しばらく考えさせてください!」

と返答するのが精一杯であった。

 取り敢えずこのように返しておけば、もう何も言ってはこないであろうと踏んだのである。ところが後日、音楽監督からの呼び出しがあった。

 「ぜひ会って話をしたい。」

と言うのである。

 私としは無下に断り切れず、社交辞令で面会を承諾してしまったのであった。

 

 帰国後、否応なしに垣間見る日本の音楽界の実情、どことなくわざとらしく設定された音楽環境の在り方に不満を抱きながらも、I君のお陰で何とか音楽を捨てずに私なりに頑張ってやって来られたのである。

 東京での仕事もようやく軌道に乗り、幾ばくかの明るい兆しが見え始め、十分とは言わないまでもある程度の収入が得られるまでになっていた。そして丁度その頃は、自ら求める音楽の方向性を構築すべく積極的な活動に踏み切ろうとしていた矢先でもあったので、東京を離れる気など毛頭無かったのである。「きっぱり断ろう」と、私は心に決めて面会したのであった。

 

 氏は、六本木界隈のとある料亭に私を招いた。座敷に囲炉裏がある古風な造りの料亭であった。初めの内は世間話で、勧められるままに酒と馳走を堪能し微酔いとなる。氏は加減を見計らって例の一件を切り出してきたが、私は頑として首を縦には振らなかった。

  話し合いはしばし堂々巡りであったが、

 「是非とも群響を良くしたい。手を貸して欲しい。群響は君のような人材を必要としている。」

と言うのである。

 氏が、さり気なく発する一言一句には真摯さが感じられ、群響に対して投ずるひたむきさと熱意さのほどが汲み取れるのであった。いつしか私は氏の根強い意志に共感を覚えるようになって行った。

 

 終戦後間もない時期、私が産まれた年ぐらいのことだったと思うが、『ここに泉あり』という映画が制作された。《戦後の疲弊した社会に潤いを・・・》と、主に子供たちに音楽を聴かせるべく、山間僻地の学校へまで足を運んで活動した一貧乏楽団の物語である。

私も、小学生の頃だったか中学生の頃だったか詳らかではないが、一度だけその映画を観た覚えがある。しかし内容のことは殆ど忘れていた。

 この映画に描かれている楽団が、まさに群馬交響楽団そのものであることを悟ったのは、その時の氏の説明によるものであった。私は少し興味が湧き、古いビデオを借りて来て改めて観直した次第である。

 

 氏は、著名な大富豪の御曹司であり、何不自由もなく音楽に明け暮れている指揮者であった。私にとって言うまでもなく直感的に毛嫌いするタイプの存在であったが、私が氏から逃げ出さなかった唯一の理由は、氏の嫌みのない、悪気のない、飾らない温厚さにあった。恐らく多くの音楽家は、氏の恩恵を被ろうと躍起になって接触を試みていたに違いない。しかし、私はそんなことには無頓着であった。私が氏に傾き始めたのは、氏の背後に聳える権力への憧れでもなければ、六本木の料亭で振る舞われた極上酒や絢爛豪華な料理によるものでもない。

 私がその時垣間見たものは、氏の未来を見つめる眼差しであった。

 

 「群馬県があなたの生活を保障する」

 と、氏は明言した。

 もしかしたら、クラシック音楽の普及のために、その地で何らかの役に立てることがあるかも知れない。私の脳裏をふとそんな思いが掠めたのであった。未知の可能性への期待が大きく膨らみ、胸ときめかせるのであった。

 私はついに群響行きを決意した。氏の純粋さと熱意を信じたのである。

 

 同年10月1日付けをもって、私は群馬交響楽団に首席奏者として正式入団した。

 


 

(23)群馬交響楽団 その一

 

 両親との同居生活は、渡欧以来の長い離散生活を思えば、様々な因果関係を踏まえながらも幸せな状況であった。一家団欒という、何ものにも代え難い家族の温かみというものを久々に味わった。言うまでもなく、私たちはその心地良さをいつまでも続けたいと願ったものである。ところがある日、突然群馬行きの話が持ち上がり、再びの離散を余儀なくされた。

 

 私と妻と二人の息子、一家四人は高崎市の八千代町というところに借家を借り移住した。白衣観音が聳え立つ観音山の麓・・・六畳二間、四畳半一間、そして狭いダイニングキッチンという間取りの新築一戸建の平屋であった。家賃は月額四万円。一度だけ東京から視察で訪れた際に、行き当たりばったりで入った不動産屋で見つけた物件である。まさにグッド・タイミングとでもいおうか、あちこち歩き廻らずに済んだのは幸いであった。

 同じ形の借家が九軒ほど寄り集まって一つの小さな集落が形成されていた。この集落を高橋荘と呼んだが、実は農業を営む家主の姓を取って付けられた名称である。家主はこの周辺に広大な土地を所有しており、その中の田んぼの一角を拓いてこの高橋荘を造ったと言うことである。丁度我家の南側ベランダの一寸先は田んぼで、静かな環境ではあったが、季節になるとカエルの声が凄まじく、また蚊なども大量に発生した。

 群馬交響楽団の根拠地は、高橋荘から車で五分程度の所にあり、仕事に通う条件としては良好であった。診療所やスーパーマーケット、幼稚園や小学校なども近くにあった。

 

 一方両親はというと、母の実妹夫婦を頼り面倒を見て貰うため、叔父叔母の家に成るべく近い所に借家を見つけ取り敢えずそこに住んだ。埼玉県の坂戸という所で、丁度東京と群馬の間にあり、東京へも近いし群馬へも近いという立地条件であった。

 一緒に群馬へ移動してしまえばそれに越したことはなかったのだが、残念ながらその時点では東京近郊にいなければならない諸事情があった。と言いながら、結局そこで暮らしたのは二年足らず、案の定ふたたび長野へ移ってしまったのである。父のこよなく愛した信州・・・次なる定着地は諏訪湖畔であった。

 

 群馬交響楽団は、戦後間もない昭和二十三年に発足したオーケストラである。しかし当初はまだプロではなく、高崎市民オーケストラと称するアマチュア・オーケストラであった。高崎のとある洋菓子店の二階スペースを借りて練習したという。音楽好きの連中が寄り集まって始めたささやかな楽団だった。

 

 いつしか群馬県内の小中学校を巡る音楽鑑賞教室を実施するようになり、徐々に軌道に乗ってくれば素人の片手間では出来なくなり、いずれプロ化したのであった。

 音楽鑑賞教室は、交通の便の極めて悪い山間僻地にまで及び、殆ど慈善事業のようなものであった。古ぼけた一台の小型トラックで巡回し、トラックが入れない場所へは団員たちが自ら楽器を担ぎ校舎へ向かったと言う。もちろんこれはプロとしての仕事ではあったが、援助金が乏しく団員への給料はままならなかったようだ。食うや食わずの日々を強いられ、脱落した者、転職した者もいたらしい。

 

 オーケストラが主要な交響曲を演奏するのには、最低二管編成でなければならない。ところがその当時の群響には、随所に足りない楽器があり、と言うか奏者がおらず、ついには苦肉の策と言うかヴァイオリニストの団員がオーボエやファゴットに転向するというような極めて無謀な顛末もあったらしい。

 

 その後次第にプロとしての認知度が高まり、正式に定期演奏会を手懸けられるまでになっていったが、当初は年に一回二回のペースであったようだ。

プロ・オーケストラとして存在するためには、先ずもって定期演奏会の開催は必須である。言わば、技術性を高め音楽性を磨くための唯一の手段であり、ひいては格上げにつながる。たとえ開催数が少なかろうと、実施することに意義があり、それこそがまさに進化の証となる。

 プロ化した当初の群馬交響楽団では、定期演奏会を実施するための編成が整わず、主要なメンバーを東京から招聘していたのである。人員を集める算段については、恐らく大変な苦労が伴っていたに違いない。しかし、そうでもしなければ定期演奏会は成立しなかった。東京から招聘されたメンバーは即戦力となり、当然入団の勧誘は随時あったと思うが、しかし彼らは定期演奏会のために雇われて駆けつけては来るものの、なかなか入団には繋がらなかったようである。地元に定着し音楽鑑賞教室をこなしていたのは、プロというよりもむしろセミプロの面々だったかも知れない。

 しかし何はともあれ、当時の時代背景を考えれば、一地方都市でオーケストラが存在したこと自体が異例のことであり、むしろそれは奇跡ともいうべき事柄であった。

 

 昭和30年、今村正監督が制作した映画『ここに泉あり』は正真正銘ノンフィクションである。それを観れば大体のことは把握できるに違いない。群馬交響楽団がプロ化した当時の真実が克明に描かれている。機会があれば是非とも観られたい。

 

 さて、私が入団した時点では、群馬交響楽団の団員数はまだ五十人程度であった。日本で二番目に古いオーケストラといわれ、発足以来三十年余りが経過していたにもかかわらず規模は小さかった。地方オケなのでやむを得ないと察した。

残念ながらオーケストラとしてのレベルはかなり低く、私が初めて演奏に加わった時には正直びっくりした。

 

 継続は力なりと言うが、よくぞ潰れずに持ち堪えて来たものである。私を誘致した遠山信二音楽監督は、群馬交響楽団(以下群響と言う)に対する出資者の一人であり、群響の育ての親とも言えよう。譬えどれほどの高邁な理想論を掲げても、資金がなければオーケストラは成り立たない。子供たちの情操教育の一環として、音楽鑑賞教室は確かに意義ある仕事である。群響はそれを実施することで県からの助成金を得ていたわけだが、実際その助成金だけでオーケストラを運営するのは極めて困難である。それを補っていたのが遠山氏でもあった。小規模ながらも二管編成を整え、年四回の定期演奏会が開催できるようになったのは、取りも直さず遠山氏の恩恵によるものだったに違いない。氏は、この海の物とも山の物とも付かないオーケストラを何とか一人前にしたいと言うことで、わざわざ私を誘致したことになろうか・・・。

 

 とにかく、私はそこで新たなる舞台に臨んだわけである。いよいよ幕が開いてみれば、実に「前途多難」の一文字が眼前に立ちはだかるのであった。初期に比べればレベルは向上していたのであろう。しかし私の期待は裏切られた。

私が目の当たりにしたものは、恰も狐につままれたかのような状況であった。東京のオーケストラとついつい比較してしまったのが間違いであった。いやはや、言葉に詰まってしまった。

 

 未だに脳裏に焼き付いて離れないことがある。それは、映画『ここに泉あり』では岡田英二が演じた実在のコンサートマスターの息子・・・映画では赤ん坊だったわけだが・・・後継者としてその息子がコンサートマスターを務めていたことである。

彼は、殆ど不機嫌な面持ちで、というか本当に音楽を愛しているのだろうかと思えるほど理解に苦しむ表情を呈し、団員を顎で使うかのようにコンサートマスターに君臨していた。他に正式なトップ奏者といえる人材は、彼と私を除いては誰一人としていなかった。「果たしてここで、どのように音楽上のコンタクトを取り合ってアンサンブルをすべきなのか・・・」と、私の頭の中は真っ白になった。

 

 ある程度の覚悟をもって入団はしたものの、出し抜けに目の当たりにした現実には辟易とした。不覚にも、一挙にマイナス思考となってしまったのである。心を取り戻し冷静に捉えてみれば、必ずしもそれほど酷いものではないのだが、逢着した物事に対し瞬時に受け取る印象というものは、場合によっては大きな齟齬を生み出しかねない。私は、新しい職場を過剰に期待し過ぎていたのかも知れない。

 しばしの猶予を置き思い直してみれば、このオーケストラには素朴さがあり、その素朴さには人間的な温かみがあり、どことなくドイツのオーケストラに似た感触があることに気づく。それはある意味、私が日本で追い求めようとしていた音楽領域に近づくための大切な要素であり、だからこそ私にとって大きな魅力となり得たのだと気づく。譬えその時点で技術的レベルが未熟であろうと、またどんなに見かけが悪かろうと、いつの日か深みのある比類ないオーケストラに成長する可能性は大いにあるはずなのである。

 

 とまれ現実は、私ごときがそこに存在しようとしまいと、楽団自体の内容は以前と何ら変わることはなかった。来る日も来る日も、学校の体育館へ出向く音楽鑑賞教室ばかりで、定期演奏会については三ヶ月に一回程度のペースであった。東京からエキストラを補充するやり方にも大差はなかった。幾多の不満を抱きながら、私はそれなりに意義を見出そうと努力したし、誠意をもって務めたつもりである。

 

 遠山信二音楽監督は、東京での話し合いの中で「生活は保障する」と明言した。私はそれを信じて止まなかった。しかし、実際の状況はそれとはかなり食い違ったものであり、その直後から厳しい現実に直面する羽目になるのであった。

給料は、決して保証に値するものではなかった。給料袋を初めて開けた時には気絶しそうになったぐらいである。余ほど音楽監督のところへ怒鳴り込もうかと思ったぐらいであったが、抗議をしたところで埒があくものではなかろうと悟り、思い留まった次第である。

 条件というのは、まさに契約書あっての物種である。口約束を信じ、書面における契約の履行を求めなかった私がいけなかったのである。人間関係では、信じていればいるほど騙された時のショックは大きい。私は、いわゆるそうしたジレンマに陥りながらも、心情的に「騙された」とはどうしても思いたくなかったのである。

「もともと口約束なんぞは無かったのだ」

と、自分自身に言い聞かせ諦めたのだった。

 

 入団後の五年間は、まさに地獄であった。まさかそういう困窮生活を強いられようとは露も思っていなかった。家計は火の車、赤字を埋めるために私がひねり出した苦肉の策は、若い時分から集めていた蔵書(初版本や全集など)を順次古本屋へ持って行って売り捌くことであった。

 祖父が危篤となった時、一家が東京へ駆けつけるための交通費すら捻出できず、幾許かの金銭をお隣さんから借りたこともある。そして更に、弦楽器奏者にとっては楽器の次に大切な弓を一本手放さなければならなかったこともあった。もし演奏中に弓が折れたりすればえらいことになるので予備は残したが、実際問題として家族を守るためにはやむを得なかった。それほど切羽詰まることがあったのである。

 

 因みに、初めて支給された年末のボーナスは、現金ではなく新巻鮭とバターであった。

 


 

(24)群馬交響楽団 その二

 

 群馬県内の主要都市と言えば、県庁所在地の前橋市と商業が盛んな高崎市である。

 当時、その二大都市で行われていたクラシックの演奏会といえば、群響の定期演奏会ぐらいしか見当たらなかった。著名な演奏家が来てリサイタルや室内楽を披露するというような気の利いた催しは皆無に等しく、もちろん地元に根付く群響団員ですらオーケストラ以外の積極的な活動をしようとする者もいなかったようである。言わずもがなの音楽状況であった。

 

 これではオーケストラが存在する意味や意義がないのではなかろうか。オーケストラがレベルアップするための気勢にはつながらない。「これではダメだ!」と、私は自ら立ち上がった。

 先ず手始めにチェロ・セクションの同士に声を掛け、「チェロ・アンサンブルの演奏会をやらないか?」と提案した。ところが二つ返事で乗ってきた者は、団員六人の内の半数に満たなかった。

 その頃はまだ、私を音楽監督に紹介したS君がいた。彼も国立音大の同級生であり、かつてI君と一緒にチェロ・アンサンブルを催した仲間であったし、どちらかと言えば私の側の存在であったので、難色を示す団員の説得にも当たってくれ、お陰で最終的に全員の賛同を集めることが出来た。同士の中には、生まれて初めて室内楽をする者もいた。

 私たちは、オーケストラの練習の合間をぬって稽古を重ねた。たった六人といえども全員が一堂に会するのは決して容易なことではなかった。オーケストラの仕事が暇だからといって、簡単に時間調整が出来るものではなかった。つまり群響の給料だけではやっていけないので、やむなく内職をしている団員もいたのだ。おおかた小さい子供たちにピアノを教えるというものであったが、音大を出ていれば専門でなくてもその程度のことは何とかなるものである。また、子供たちを集めるということも、地域に定着していればこそ成せる技であろう。まさか私のように蔵書や弓を切り売りした者は多分いなかったであろう。団員の多くは大概地元の女性と結婚していたから、何かと便宜がはかられたに違いない。

 新しい土地にやって来た新参者の私には、初めての土地で伝もなくピアノを教える術もなかった。第一、家にピアノがなかった。またチェロ人口が少なく、チェロを教えることもままならなかった。

 

 チェロ・アンサンブルの稽古は、オーケストラが練習場として使っていた群馬音楽センターの会議室で行った。私たちは、出来る限りの合わせを重ね本番に臨んだ。当時は適当な小ホールがなく、本番もその会議室で行った。演奏会当日は、事務局員(この中には、群響がプロとして始めた頃にプレイヤーをしていた人もいて後に事務局員に転じた)が厚意で受付やセッティングを手伝ってくれた。客入りは上々。チェロ・アンサンブルという珍しさが集客につながったのであろうか、いやいや実際のところ同士が手分けして知り合いを集めてくれた結果であった。さすが長く住んでいる人は違う。その頃、私には到底人集めは無理であった。

 一般の人々に成るべく親しみやすいものをと思い、自ら映画音楽やら何やらを編曲し提供した。演奏の出来具合については、アンサンブルとして決して十分なものではなかったが、音楽会そのものは成功を遂げた。1979年4月のことであった。

 皆「やって良かった」と満足げであった。勿論、彼ら一人一人の真意のほどは不明であるが、群響始まって以来の会心の作業であったと思う。

 

 それを皮切りに、私は様々な形態の室内楽を提案し実践して行った。それに触発されてかどうかは判らないが、いつしか巷では音楽会が盛んに行われるようになった。

 私は、いずれこの街が「音楽の街」と称され、群響がシンボル化されることを夢見ていたのである。

 

 入団から五年間、実に惨めな生活を強いられながらも音楽活動に励んだ。確か、五年目の終わり頃からだと思うが、群響に対する県の助成金が増え始め、団員に対する給料も改善されるようになった。年間の定期演奏会の回数も増え、六回が八回になり、八回が十回になり、最終的には毎月実施されるようになって行った。

 不思議なもので、群響の体制が良くなるにつれ私個人の演奏活動にも変化が生じ始めた。サロン・コンサートやミニ・リサイタルの依頼が相次いで舞い込むようになった。そして更に、チェロを習いたいという音楽愛好家も次々と現れたのであった。

 

 生活が、幾らか安定し始めた頃のことである。高橋荘での借家住まいには随分と慣れ親しんだが、実際問題かなり手狭な状況となっていた。息子たちはすでに二人とも小学生になっていて、段々と体も大きくなって行く。またチェロの生徒を持つようになった私としては、落ち着いてレッスンのできる部屋も欲しかったので、ついにマイホーム計画を実行に移したのであった。

 もちろん手元にまとまったお金があった訳ではない。貯えなど一銭とてあろうはずもない。ただ一つだけ、実現可能な方法論を見つけた。通常よりも少し高く付いてしまう結果にはなるが、ミサワホームで建てれば頭金が無くても良いということを知ったのである。いわゆるミサワホーム・ローンと住宅金融公庫の二つを併用する方法論であった。もちろん長期の返済に不安が無かった訳ではない。しかし、ここは「思い立ったが吉日」という言葉に肖り実行に踏み切った次第である。

 

 群馬への移住については、まさしく思い切った決断が必要であった。その分、期待に心を弾ませてやって来たわけだが、もしそこで何一つとして意味や意義を見い出せないようであれば、即東京へ舞い戻る心積もりであった。

 既に述べたことだが、入団後実際に幕が開いてみれば齟齬だらけ。辟易とすることばかりであり、あわや挫折寸前の惨めさまで味わい、即刻断念して然るべき状況にまで追い詰められたが、私にも男の意地というやつがあった。

 「うっかり騙されて話にのってしまった・・・」なんぞと、まさかそんな言い訳じみた惨めったらしいこと言い放って幕を閉じることだけはしたくなかった。だからこそ、貧乏にも耐え頑張って来られたのである。

 

 人生、まさに紆余曲折。逢着した問題を一々取り上げていたら切りがない。細かいことは言うまいと心に決めてはいるが、突如降り懸かった忌むべき境遇、その否応のない五年間という歳月の中で、私はやおら自負心を掌握する。

 「私なりに幾許かの役割は成し遂げたのだ」という達成感を、いつの日か抱きたかったのである。そしてそれは、ある意味かけがえのない喜びの象徴へとつながる可能性をも示唆していた。

 

 群響でも、やはり派閥と言うものがあった。地元に根付いて権力をふるっている族がいた。大変残念だが、私は終ぞ彼らと打ち解け会うことはなかった。彼らが私に対してそうであるように、私も彼らに対してアレルギー反応を起こした。結局アンサンブルと言うものを共同で実践する間柄には成り得なかった。とは言え、私は彼らの言動を妨害したことは一度もない。ただ近づかなかっただけである。むしろ私の方が後に妨害され、それこそ転職へと繋がる結末を余儀なくされたのであった。少なくとも彼らは、私なんかより遥かに賢かったと言うことになる。

 これは決して誹謗中傷ではなく、人間のさまざまな生き様における事実関係を述べているに過ぎない。これをどのように捉えるかは、個人個人の理解と許容の範囲となろう。

 

 さて、群響にはそれ以降も十数年に及び在籍した。結局幾多の顰蹙を買いながらも、私は私自身の信念に基づいて活動を続けた・・・

 果たして、心をときめかせられるような《希望の灯》は見えてくるであろうか・・・。

 


 

(25)群馬交響楽団 その三

 

 「右にすべきか左にすべきか、それが問題だ!」とはシェークスピアの言葉だが、人間にとってまさしく選択という行為は極めて重要な位置を占める。

 ただ漫然と生きて行くのであれば、取り立てて選択を重視する必要はなかろうが、もしや思い付きで生きて行くというのも、ある意味インスピレーションを活かすという大事な役割があるのかも知れない。

 而して、世の中のために何をすべきかを模索し解き明かすのは難しい。場合によっては、これぞと決めて行動する時、正義を振りかざすことにも成り兼ねない。この正義というやつは、誠に厄介な定義となり兼ねない。

 

 群馬の地で、私はとにかく黙々と己の道を歩んだ。無論生まれてこの方、人を蹴落とそうとか、抜きん出てやろうとか、そんなことは微塵も思ったことがない。ところが逆に、私のやろうとすることについては潰しに掛かろうとする輩が現れる。どう言うつもりなのか誠に不可思議だが、必ずと言って良いほど現れる。まさに出る杭は打たれるのである。

 まあ、これが世の中であれば仕方がないと言うしかない。結局「我が道を行く」運命なのである。

 もしほんの僅かでも私の言動が理解されるのであれば、そこにはそれなりに価値があるものと判断し邁進できる。該当する分野における真の理解者がたった一人でもいれば何とかやって行けるのである。

 私が群響に在籍中、数えきれないほどの企画や音楽会を実践した。在籍18年の中でオーケストラ以外のソロや室内楽コンサートは、全国に及んで展開し正確には分からないがほんの小さいものまで入れれば恐らく数百件となろうか。幸いにしてその都度、幾許の理解者が現れ大きな支援を被った。

 

 オーケストラに関しては、首席不在だった他の地方オーケストラからも客員首席奏者として呼ばれたこともあった。時折移籍を持ち掛けられ、心を動かされるようなこともあったが、とにかく引っ越しが面倒だと言って断った。前橋に家を建てて間もない頃だったし、引っ越しなど考えられなかった。

 

 もし、群響に18年の長きに亙って在籍することなく、早々に東京へ戻っていれば、もっと別の人生があったかも知れない。しかしそれでも私が群響を辞めなかったのは、言うまでも無く男の意地であった。

 

 1980年2月、私は師匠であるベルリン・フィルの首席ソロ奏者エベルハルト・フィンケ氏を招聘した。氏はすでに高齢の域に近づいていたが、その頃はまだ現役であり、何よりもその人間味と温かみ、そしてそこから滲み出る豊かな音楽性というものを、ぜひ日本の多くの音楽愛好家に知ってもらいたい思いがあったからである。

 群響では、遠山信二音楽監督の指揮によりハイドンのチェロ協奏曲ニ長調を演奏した。そして東京では、心友I君が独自の企画を立て、リサイタルやレコーディング、更に公開レッスンをもプロデュースしている。リサイタルは東京文化会館小ホール、レコーディングは東松山文化会館、そして公開レッスンは某所で実施された。

 リサイタルとレコーディングで、私は第二チェロを担当させてもらった。師匠との共演はこの時が初めてであった。大いに勉強させてもらった。

 

 1981年頃から私は、群響の仕事の合間を縫って県内でのソロや室内楽を積極的に行うようになった。新聞記事など沢山の切抜紙片が残ってはいるものの、殆どは年月日が不明である。私の保存の仕方が好い加減だったのと、何しろ記憶力が乏しい。

 

 1982年6月、東京文化会館(小)にて第4回チェロ・リサイタルを開催している。果たしてどういう心境で、このようにわざわざ東京で開催したのか思い出せない。残っているプログラム冊子を開いてみると、かなり趣向を凝らしたものを作っている。旭光学工業株式会社(ペンタックス)、(株)岩田印刷所、(株)サン・アド、シルバー精工(株)等々から協賛金を得、そのプログラムに関しては随分と予算を投じている。24ページに及ぶ冊子など演奏会用としては前代未聞のものであり、恰も同人誌のようにエッセーや挿絵が組み込まれている。

 今改めて見てみると、相当粋がってやっている感じがする。「純粋音楽」というものを豪語したかったようであるが、読み返してみれば、意味があるようで無いようなもの・・・何と35年前のことであり、若かったとしか言いようがない。無駄な作業であった。

 さてそのプログラムで私が書いた『純西洋音楽私議Ⅰ』なる一文。突然の思い付きだが、一応記録として残したい気持ちもあり、敢えてここで掲載することにした。ただし、極めて長文であり、文章も余りに未熟であり、また脳が空回りしている体があるので、わざわざ読むべき代物ではない。三ツ星印から三ツ星印の間は、無視して飛ばされたし・・・。

 (この長文、一から打ち直しをするわけではない。打ち直しなんて想像しただけで気が遠くなる。幸い私のプリンターに【読取革命】というソフトウエアが付属しており、スキャンした文字列を選択コピーしワードに貼り付けられる仕組みになっているので、一瞬にしてこの紙面に反映させられる。誠に便利だ。)

 

☆ ☆ ☆

 

 人間は、夫々生来の体質的条件を擁護しながら社会に紐帯し、生活或は職業から乖離しない範囲で独自の文化志向を展開するが、その行為は屡々個々の体質的志向としての強固な精神論理をも形成する。

 体質的文化志向とは、生活と職業との物的因果性によって齎される情緒の欠陥を払拭する営みであり、所謂夫々の異なる体質に内在する自由に満ち足りた一刻の劇的時問を獲得しようとする精神的欲求なのである。そしてこの文化志向は、人倫的芸術をこよなく愛好することによって順次構築されて行くのが一般的であるが、その場合プロフェッショナルとかアマチュアとかの格差を弁ずる要はなく、飽く迄も真の敷衍作業の一つとして、窮極的には人間の真実を白身に膠着させなければならないと云うことになろうか。

 取り敢えず、音楽的志向について考察を試みて見よう。

 人間は、基本的に二通りの無垢な感覚的生命をもって音楽に対峙している。つまりそれは,体質的差異に帰趨するものと見た場合,〈音楽的感受性の側〉及び〈非音楽的感受性の側〉と云う類型的分類に表わすことか出来るであろう。音楽と云う抽象性の世界に於いては、これほど体質的差異を的確に区分することが可能なのである。

 〈音楽的感受性の側〉の大方は、音楽を必要欠くべからざる天恵とし、恰も憑かれたかのように愛好する。そして自らの主動的欲求を充足させるがために、最良の方法論を見出そうとする。また或る者は,敢えて隘路を犯してまでも凌駕の期成を喚起して探索するのが常である。

 一方〈非音楽的感受性の側〉は、それを意味のない所産物とし,殊更に接触を回避して無視するか,或はそれを耳にしただけで一種の分裂症に陥り、身震いして逃げ出したくなると云った著しい拒否反応を包蔵している。しかし、以上の対局的な孰れの体質的差異にも隷属しない〈音楽的未然性の側〉も、一方で存在していることも紛れもない事実である。この場合は、音楽に対する決定的乖離ではなく、要するに理解度の振幅に感性の齟齬が絡みついているだけで、易々として〈音楽的感受性の側〉の領域に移行し得る可能性を多分に享有していると目される。

 以降一節、音楽についての例外的演繹を試るつもりであるが、ここで云う音楽とは、一応正統的西洋音楽を指すもので、ジャズやロック等は当然別個のそれであるとし、従って古典音楽、近代音楽、そして現代音楽に関してのみ純粋な西洋音楽と見做す。

 西洋音楽は、人間社会の文化の一端を支配する純粋芸術のジャンルに属しているが、それについては余りに高度な芸術性を含んでいると思われているが為に、或いはまたその理解にはそれなりの対応性が必須の前提であると思われているが故に、真の愛好家は残念ながら極めて稀少である。しかし,元来音楽を総体的に好みながらも,特に誇り高い音楽愛好家であることを自負する者は必ずしも少なくはない。

 その中には、西洋音楽にも無縁ではないと云いながらも、客観的に突き詰めて見ると意外にそれについての感情が緩慢であったり、言動が弁疎的であったりしていることが多々ある。例えば或る者は,レストランや喫茶店などの喧噪の内に何気無く流れているそれには全く抵抗を覚えることはないが、わざわざ音楽堂へ赴いてまでも厳格に耳を傾けるつもりはないと云い。また或る者は、西洋音楽は難解であり稀に見て堅苦しく取り付きがたいものであることを述懐する。

 総体的に音楽への愛好心を持続するためには、敢えて西洋音楽会に見られるある種の型式的桎梏を受けたくないと云う、音楽愛好家の素朴な実感が解らないと云うのではなく、彼等に対して強弁による叱正を加えようとする心算はないのだが、それにしても何故西洋音楽についてのみ,難解であり厄介なものであるとする先入観が蔓延するのであろうか。

 確かに西洋音楽を愛好するに当っては、幾許かの内面的知識がなければ充分なる享受を味わえないかも知れない。しかし、社会での煩瑣なる生活と職業の只中にあって〈音楽的感受性の側〉としての心を啓き、幾許かの知識を事前に蓄積することは、決して苦痛への繋累を意味するものではなかろう。むしろ〈音楽的未然性の側〉の中には,時には音痴を自称していても、西洋音楽に対し純真な好意を顕示し、それなりに知識の享受に努めようとしている者がいる。しかしながら、外見の姿勢とは全く対蹠している愛好家が存在するものと仮定した場合、人間がそれほど怠惰で精神的理知に乏しい生物であるなら、取りも直さず偽善的文化志向が氾濫し、ともすれば非人間的虚栄心を倍増させることにもなりかねない。またそう云う無意識的怠惰な姿勢は、一方ではややある種の熾烈なレコード狂にも類似点を見出すことが出来る。つまるところそれは,真の文化志向に於ける人間的コミュニケーションへの欺瞞を成立させ得ると云った悲しい起点との逢着を予測せざるを得ないことになるのである。

 西洋音楽に於けるレコードは、徹底的に厳密性を重視し、アナロジカルな構造を美事に集大成した高級な雛形として、確実に有意義性を包有している。そして更に、規定の名曲や名演奏を後世に継承せしめる重要な役割を担うと共に、専門家にとっては、或は亡き巨匠の遺唱を伝達する唯一の価値ある媒体である。その意味ではこのレコード音楽の果す啓蒙の要素は深甚多大である。しかし逆に容易に擬製された認識を構築させる力をも併せ持ち、愛好の精神の如何によってはまさしく実体の喪失をも誘導しかねない。そのような電機装置を利用して表出される音響によってのみ取得した認識は、それを本来の音であるとする狭い見解を前提として、生の純度を擬音に易々として眩惑され、音楽に携わる多くの純粋なる演奏家の在り方を不当に評価すると云う蒙昧な陥穿に陥れる可能性もある。そう云った文化志向に対する軽佻なる姿勢は、危険な誤謬として神聖なる音楽芸術の世界に致命的な頽廃を招来するのである。

 西洋音楽は、余りにも漠然とした不可視的観念世界である。それに引き替え絵画、小説、演劇等はいずれも可視的芸術であり、それらは表現手段に相違はあっても一般的にはその内心的表現は各自の思惟を通じて、文字、色彩、形式等の形而上的世界を了解するのである。その所以は、まさしくそれが現実と融和し或はそれを克服しようとする具体的な言語や行為を総合しているからに他ならない。人間は古代より,言語や行為や形態の明確さを主体に,有機的な頭脳の運動訓練を強いられ、それをもって厳然たる理知の発達を誘発された。音と響と云うものは、一般的には飽く迄も言語や形態の巨大な広がりの中に併存していたものに過ぎない。

 音楽は、総じて仮構的な音符と云う記号によって構成されているが、この音符なるものは果して一般社会に於いて西洋音楽入門のための如何なる手引となるのであろうか。一般社会人は、羅列された音符を無抵抗に解読し得る特別な訓練を受けてはいない。即ち音符なるものは,普遍的かつ具体的な記号ではあり得ないのである。

 作曲家は,そのような非普遍的記号である音符を駆使し、秀れた手腕と先鋭な頭脳を表現しようとし、湧き出ずる想念を次第に規律化し、複合的に構成しながら作品を創造し定着化させているのである。そして、そうした作品の再生作業を使命とする演奏家は,自らの感情をその中に如何に豊かに移入するかによって演奏の意義を発言することになるが、たとえ演奏家がその漠然たる音符の羅列を美しい明晰な人間的思考形態として充分に把握し、丹念に音と響とを表現し得たとしても、やはりそれだけでは完全にその表現化に成功したとは云えない。しかし西洋音楽は、この漠然性を決定的な在り方とし、人間の聴覚に訴え直接心底に感動を及ぼすことを必至としなければならない。人間には心があり、人間がその心を通じて社会に紐帯している以上、西洋音楽は、絵画、小説、演劇等の可視的芸術と同等に、或はそれ以上の力をもって純粋芸術の分野にその存在を誇示できる。そして社会生活に於ける珠玉の如き心の豊かさを発酵させ、更に限りない心的充実を求めながら一切の中傷にも微動だにしない朗々たる心情による別天地を牢固として構築するのだ。

 かくして人間の心は,永久に不可侵であり、崇高な叙事詩の背骨に支えられたある種の人格を形成する。故に西洋音楽における音と響へ傾倒することこそは,遂には人間の心情と交流によってのみ可能なのである。

 社会生活の紆余曲折の中で、稀少なるく音楽的感受性の側〉は、この漠然たる西洋音楽を心から愛好し、純粋無垢な感動を自覚しているのである。或はその一部には、偶か意味内容を理解したと云う風貌を呈し、恰も高度な精神の勝利を享受したかのように喝釆する者もいる。またそこには、サーカスの観客たり得る驕慢なる精神の持主とているかも知れない。しかし西洋音楽は,奇々として音と響きに依拠した漠然たる精神の戯れであり、イマジネーションを豊饒にする官能の世界なのである。決して理解とか解釈とかを執拗に要求する晦渋な哲学的論理の世界ではない。西洋音楽は,まさに神聖なる心そのものである。

 現今は、事さらに電波放送が普及し、音響機器の著しい進化によって音楽が各家庭や個人へと、それぞれ密着度が高められている。特に音に於ける秀れた複製化は、レコードの質的レベルを美事に向上させ、音楽鑑賞はまさしく個人による個室での孤独な楽しみに沈潜しつつある。それは、文学者が全く個人的嗜好の狭い世界にあって創作し、またそれが個々の読者によって最も純粋に鑑賞されると云うような対偶性と殆ど同質に、音楽の世界でもその傾向が可能となったのである。しかし、文学はそうした相互の孤独な作業で事足りるが西洋音楽は本来そう云う閉鎖的世界を形作るものではないはずである。実際問題、秀れたレコードは下手な演奏者における演目よりも豊かな内容を常時用意してくれるものであり、またレコードの蒐集は折々の個人的生活状況に合せて自由自在な楽曲の選択が可能である。しかし西洋音楽の場合には、窮極的には演奏会に赴くということが必須の条件とならなければならない。

 その意味で演奏家は,自らの演奏美学を大いに論じなければなるまい。

 

☆ ☆ ☆

 

 遠山信二音楽監督が肝硬変により亡くなられ、逝去を悼んで『遠山信二先生を偲ぶ会』を発足。1986年2月、私が呼び掛け人となり賛同者を募り『新室内合奏団’86同人』を結成。これはプロとアマの有志による共同体であった。

 私自身は、入団当初の経緯もあり、氏にしてやられたという感懐が尾を引いてはいたが、実際には氏の優しい人間性には好意を抱いていたし、何にはともあれ群響の発展に貢献した唯一の人物である。その意味で、私としては畏敬の念を怠りたくはなかった。

 

 新聞社の取材を受け、追悼演奏会が何故プロ・アマ合同で取り行うかについて聞かれた時、「音楽をすることにプロ・アマの格差や隔たりはなく、それだけに厳しさも要求され皆一生懸命になれる。形式に囚われない音楽の在り方をこの機会に実践したかった。」と、『新室内合奏団’86同人』としてコメントした。

 遠山信二先生を懐かしむ群響団員を始めとし、前橋フィル、高崎市民オケから有志が集まり、モーツアルトの交響曲39番、クレンゲルの『12台のチェロによる讃歌』などを演奏した。

 

 1987年7月には、更に遠山信二先生を偲ぶ会として「夏のコンサート・愛と希望と平和のために」を開催。1987年11月には、「遠山信二先生に捧げる」として、再びエベルハルト・フィンケ氏を招き特別演奏会を開催した。ドヴォルザークのチェロ協奏曲、カザルスの「鳥の歌」などを演奏。この時は私が指揮をした。

 余談だが、このコンサートの後、フィンケ氏が「お前は指揮者に向いている。才能がある。またドイツへ来ないか。指揮者としての道は拓かれる。」と言った。(この話、作り事と思われても嫌なので一応証拠を残しておくことにする→各種資料へ

 しかし私は、二人の息子たちがまだ小学生だったし、家族を置いて単身ドイツへ行くわけにもいかず、また移住となれば大ごとになるのは目に見えていたので、内心極めて残念であったがお断りした。

  

 確かその頃のことだったと思うが、草津国際音楽アカデミーが始まっていた。カメラータ東京の音楽プロデューサー井阪紘氏の肝煎だったように記憶している。が、無論定かではない。

 遠山信二音楽監督亡き後、ヴァイオリニストの豊田耕司氏が群響の音楽監督に就任し、彼を中心とする国際音楽アカデミーが発足。井阪紘氏が事務局長を務め、更に亡き遠山信二氏の実兄であった音楽理論家の遠山一行氏が主要メンバーとして加わっていた。それは言わずもがなのことであろうが、群馬県の予算をもって運営された。

 

 この草津国際音楽アカデミーは、当初群響を盛り上げるべく考案されたものと聞いていたが、蓋を開ければそれは表向きのものであり、実際には音楽に対する情熱よりも権利者への忖度で選ばれた者だけの活動の場となっていった。国内外の著名な音楽家を集結させ一見豪華絢爛な有様を呈していたが、日本では毎度お馴染みのパターンであり、ヨーロッパにおける音楽講習会の意味や意義とはまったく異なるものであった。金を掛ければ何でも出来る。いわゆる著名人を集めさえすれば何でもOKと言うパターンであった。

 

 個人的ではあるが、私は基本的にそうした有り様には賛成できなかった。西洋音楽が日本に輸入されて以来たかだか100年余り、この未熟な歴史の中で私たち音楽家は徹頭徹尾謙虚であること、思い上がりを増殖するようなイベントは200年も300年も早いのである。最も大切なのは見せかけの華々しさではなく、より深く庶民へと近づく、地道な説法と底辺の拡大なのではなかろうかと考えていた。

 

 この草津国際音楽アカデミーに際し、松野迅というヴァイオリニスト(ヴィオラも弾く)が参画していた。群響の首席ヴィオラ奏者を担当するエキストラとして招聘されて来ていたわけだが、たまたま話をするきっかけを得て意気投合した。私の取り留めのない音楽論に何故か賛同したようであった。恐らく私が珍しいことを豪語していたものだから興味を持ったのであろう。或いは何らかの形で使いようがあると判断したのかも知れない。

 彼の奥方亀田美佐子女史もまた秀逸したヴァイオリニストであった。後にこの三人でベートーヴェンの弦楽三重奏をNHK・FMで録音し放送したことがあり、また松野迅氏とは、アマオケの前橋フィルと田中一嘉氏の指揮でブラームスのヴァイオリンとチェロのためのドッペルコンチェルトをやったこともあった。

 その頃、私が偶々提示した一枚の手書き譜『すみれ』を手に取り「いい曲ねー。ヴァイオリンで弾かせてもらっても好い?」と言い、彼はそれ以来自身の毎度の演奏会で弾くようになった。今でも時々弾いているようである。その頃は、彼も一際純粋であった。すでに彼との交流は途絶えているが、『すみれ』に対する著作権料は微々たるものではあるが未だに入金がある。

 

 先ほども書いたように、本来日本で広めるべきは著名人を集めて華やかに繰り広げる一大イベントではなく、もっと普通にプロとアマとが一体化し切磋琢磨し合えるような場を作ることこそ、音楽普及の一環として必要なのではなかろうかと思っていた。音楽愛好家たちが自然発生的に音楽作りに励むことが出来る環境の設定を求めていた。簡単に言えば、夏の合宿を少しばかり大掛かりにしたようなものとでも言っておこうか。

 松野迅氏も亀田美佐子女史も、そうした私の発案に賛同したが、果たしてどこまで理解していたか、その真意のほどは分からない。私は、その活動団体及び合宿名を『室内楽INN』と命名した。立ち上げは、信州車山高原の某施設で1週間の設定で実施。延べ300人の参加者があった。その施設にはオーケストラの練習が行える大スペースがあり、ピアノも置いてあった。そこでプロもアマも一緒になって合奏や室内楽を行った。また夜になると連日コンサートを催し、参加者が何らかの形で生演奏をし、その生演奏をお互い聴き合うことで、音楽会が一堂に会して行われることの意味と意義を把握し理解するというものであった。

 

 『室内楽INN』は毎年開催され、数年間続けられた。しかし、彼らの考え方が徐々に私のそれとは食い違いを見せるようになり、結局私は辞退し去る形となった。彼らは未だに続けているようである。良い悪いは別にして、彼らの言動はただ政治的意図に心を奪われているだけのように感じられた。

 『室内楽INN』は、実質1985年から1987年頃まで全国規模で活動し、その中には師匠のエベルハルト・フィンケ、ソロ・ヴァイオリニストのトーマス・クリスティアン、イ・ムジチ合奏団コンミスのピーナ・カルミレッリを招いて行ったコンサートも含まれる。

 フィンケとはシューベルトの弦楽五重奏ハ長調他、カルミレッリとはブラームスの弦楽六重奏変ロ長調他をレコーディング。『室内楽へのいざなひ』と題し、二枚のレコードが室内楽INNの提供で販売された。

 

 1990年某月、亡き遠山信二氏の奥方から相談があった。音楽事務所を発足したいので協力して欲しいと言う趣旨の依頼であった。何故私のような三文音楽家にそのようなとっぴよしもない話を持ち掛けて来たのか判らない。私は難色を示しながらも、取り敢えず条件を受け入れてもらうことで承諾した。

 音楽事務所【あ佳音】(この名称は私の一篇の詩から引用したと言う)の立ち上げに、私は演奏家として参画・・・当時群響にコンマスとして入団していた篠崎史紀氏を紹介し、ピアニストの高橋裕希子を加えトリオ・フェルネを結成。1991年2月、遠山家本宅において亡き遠山信二氏を偲ぶ五回忌のコンサートで結成披露を行った。

 1992年1月から本格的な活動を開始し、各地へコンサート・ツアーを行う。仙台中新田のバッハホールでは特別演奏会を催し、同ホールでレコーディングも行った。アレンスキーの二つのトリオを収録したが、この選曲については私が提案したものである。アルコール中毒に侵された不遇の作曲家の作品を取り上げることに意味と意義を見出した。この二つのトリオが表裏で発売されているレコードやCDは、その当時世界に一つもなかったのである。

 1992年4月、【あ佳音】の主催でチェロ・リサイタルをサントリー・ホール(小)でさせてもらった。群馬在住である限り東京でのリサイタルは第4回のそれで打ち切ったつもりでいたが、この際は【あ佳音】の意向もあり、一応演奏者リストに連ねられていたのでOKした。ピアノは、北海道出身で国立音大を卒業し、群響へもエキストラ・ピアニストとして呼ばれていた秋本順子であった。

 1992年11月、東京浜離宮朝日ホールでトリオ・フェルネの公演を行ったが、これが【あ佳音】における私の最後の演奏となった。

 

 音楽事務所【あ佳音】の発足に当たって、私は条件を出していた。著名人を起用するのではなく、無名の人材の発掘に努めることを約束してもらっていたのである。篠崎氏は今やN響のコンマスであり著名人となっているが、当時はまだヨーロッパから帰国したばかりの新人であった。

 ここでまた余談だが、私はクラシックとは別の分野にも着手しており、篠崎氏とはタンゴ・バンドを組みアルゼンチン・タンゴやコンチネンタル・タンゴなどのライブ・コンサートも行った。ピアノ、コントラバス、バンドネオン、カンシオンが仲間入りし『セステート・パライーソ』と称して群馬県内で活動した。

 

 さてその後、【あ佳音】の社長は、無名な演奏家を使っていては採算が合わないと言うことで初心から逸脱し始めた。夫の財産を受け継ぎ資産家であったはずである。恐らく金銭的な問題ではなく、何か政治的な力が商業主義に転じさせたのであろうと推測した。

 とにかく意見の食い違いが生じ私は辞退することとなった。篠崎氏はそのままお抱え演奏家として留まり、結果現在の地位まで登りつめたことになろうか。勿論、実力あっての物種には相違ないが・・・。

 今はもう社長も他界され、その後果たしてご子息が後を継がれたのかどうか、もはや私には知る由もない。

 

 私は、とにかく庶民に近づくべく、サロン・コンサートに身を投じた。喫茶店や画廊など、どんなに狭いスペースであっても演奏可能な状況であれば進んで行った。これはベルリン時代に体験した未亡人宅でのホームコンサートに由来しているのだと思う。県内外の寺院におけるコンサートもあった。

 チェロの指導について言えば、資料が見当たらず正確な期間は不明、年代も曖昧だが、白鴎大学足利高校音楽科で数年間後進の指導に当たったことがある。指導したすべての生徒は各音大へ現役で合格させた。東京芸大、東京音大、武蔵野音大等々あるが、個人的な心情の問題で国立音大だけは勧めなかった。いずれにしても私は、彼らの成長のプロセスの一端を担ったに過ぎない。今や夫々が各方面で活躍されているであろうことを祈るのみである。また自宅で個人レッスンをしたアマチュアの弟子も少なくない。しかし私が群馬を去った後、今もなお慕って訪ねてくれる弟子は、ほんの僅かである。

 1983年5月、神奈川県民ホール(小)において、レコード・アルバムのための収録を行った。そしてこれは1985年5月の時点で、群馬県沼田市の開業医であった故角田勉氏の協賛を得てレコード化が実現。タイトルを『瀬越 憲チェロ・リサイタル』とし、室内楽INNの活動に準じて販売した。

 1991年11月、ベートーヴェンのチェロのための全作品を披露している。これについては勿論自主公演であり、自らの錬磨のための時間であった。高崎の群馬音楽センターに隣接する群馬シンフォニー・ホールにおいて二夜にわたり開催。ピアノは秋本順子が担当した。

 1992年6月、群響・平成4年度高等学校音楽教室の全五公演でドヴォルザークのチェロ協奏曲を弾き、1993年11月には、アマチュアの群馬シティ・フィルでも同コンチェルトを弾いている。また1997年12月、前橋市文学館ホールにおいてCD『メディテーション』のレコーディング。この時もピアノは秋本順子であった。

 ピアニスト秋本順子は、元々は声楽の伴奏者で、決して器楽的テクニックの持ち主ではなかったが、小品小曲においては充分なる才能を発揮した。私の演奏家人生の中で、共演したピアニストは数え切れないが、その時代のとにかく数を熟さねばならない情況下にあって、私のソロに無難に対応してくれた唯一のピアニストであった。彼女とは、もう二十年余りも前に決別している。

 

 而して、群響に奉職し16年、思うところあって演奏から身を引き事務職に転じた。演奏に携わっていても理想の環境づくりは難しいと悟ったからである。県の意向もあり音楽主幹となったが、団員らの反発をくらい辞職に追い込まれた。確かこの頃は高関健氏が音楽監督だったと記憶している。彼とも全く相性が合わなかったことを良く覚えている。事務局では2年間の在籍で終止符を打ち、総じて群響には18年奉職したことになる。

 私が音楽主幹を務める中で、私が企画をして実現したコンサートは、唯一1996年8月に開催した『人魚姫』であった。他にも新宿厚生年金会館や幾許の地方都市主催で行われるはずだったコンサートは、すべて潰されてしまった。

 私の見解については、むしろ理事長を始めとする理事会の面々は好意的に捉えてくれたが、残念ながら楽員の面々は私を蔑ろにした。もしかしたら彼らに恐怖心を抱かせてしまったのかも知れない。私も未熟であった。

 1998年3月、群馬交響楽団を退団した。

 

 事務局員として2年間務めたその終り近くのことである。県内外の営業に回っていたある日のこと、偶々訪れた太田市で市長が肝煎で始めたという太田芸術学校の話が持ち出され、その流れで直ぐさま太田市長からの正式招聘を受け、太田芸術学校の副校長(課長待遇)として奉職することが決まった次第である。

 このことについては、次回の記述としたい。

 

 ここで一言書き添えて置きたいのだが、私の回想録の書き方は過去・現在・未来が行ったり来たりしていること。多分、紛らわしいと思われているかも知れないが、これは記憶を呼び起こし確認するための私の手法なのでご理解賜りたい。

 

 とにかく私は、何を言われようと信念を貫いてやって来た。もっとも、数年前に音楽を断念し、引退を宣言した時点でその信念とやらは頭からすっかり消え失せてしまったが・・・。

 思い起こせばやることなすことすべてが徒労に終わった。音楽に関して何をかしてみようという気概すら失った。私は、それまでの音楽人生を自ら完全に封じ込めたのであった。

 現在は古稀を迎え、無の境地を求めている。

 

 さて、心友I君とは、1982年辺りから接触が途絶えていた。原因が何であったか全く記憶にない。ただ、私が膨大な仕事と悩みを抱え右往左往していたことには違いないので、恐らく私は彼を訪ねる精神的余裕がなかったのだと思う。もしその時私が、彼に心の迷いや悩みを打ち明けじっくり相談していれば、多くの無駄を回避出来ていたかも知れない。後悔先に立たずとはこのことである。実に浅はかであった。

 

 そして数か月前、心友I君と三十数年ぶりの邂逅が実現した。すべては彼の厚意であり、良くぞ私の所在を突き止め尋ねてくれたと、言い尽くせぬ感謝がある。

 

 長い間臆面もなく語り続けて来た純西洋音楽私議なるものもすべて排斥し、音楽家として生きる意味をも見出せぬまま逼塞していた私の心を、揺り動かし蘇生させてくれたのはまさにI君であった。

 この心友I君とは、実は音大時代から交流のあった石場惇史君のことである。これまでずっとI君としてきたが、これからは実名で書かせてもらいたい。

  そして更に、私にバッハの無伴奏チェロ組曲の全曲解析を奨励したのも、取りも直さず石場君であった。無の境地を求めていた私だが、この解析という作業に取り組むことで新しい世界へと吸い込まれて行ったのである。

 ある意味、無の境地への志向性というものが、むしろ真実を解き明かすべき敬虔な生き方へと進化させたのかも知れない。

 

 すべては石場惇史君との邂逅に裏付けられた、虚無からの発信である。

 


 

(26)運命というもの

 

 今から凡そ60年前、日本にテレビという文明の利器が出回りだした頃のこと、社会評論家大宅壮一氏が『日本列島一億総白痴化論』を唱えた。「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかりを見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう。」と述べたそうである。その頃、私はまだ子供だったので理解するには早過ぎたが、物心つてからその話を父から良く聞かされた。

 

 私がドイツ留学から帰国し、日本で音楽家として取り敢えずの営みを開始した辺りから、そして今日に至って、その言葉はまさしくバイブルのように私の脳裏に定着している。

 

 日本において西洋音楽が正しく伝達されないのは、もしや日本人が文明の利器からの錯綜する情報に影響されやすい正直な人種だからなのであろうかと思うようになった。擬制の規約みたいなもので、あれやこれや一緒くたにして皆で擬えてしまう習慣がついてしまっているのかも知れない。もっとも、私自身もテレビ人間と言えないわけではない。暇さえあればテレビを視ている。

 

 宮沢賢治の童話『セロ弾きのゴーシュ』の中でもそのようなことがたっぷりと語られている。日本列島、どれだけの人間が宮沢賢治の童話を読んだであろうか。恐らく、テレビの視聴に比べれば微々たるものに違いない。

 今更テレビが諸悪の根源であるとは言わないが、真なるものに対する認識の柱を持たない人種がテレビをみていれば人間の在り方を見失う可能性は大きい。

 そして喧噪の中の音楽。都会の雑踏で何故かモーツァルトが鳴っている。テレビ・ニュースではアナウンサーが喋っている間中も背景に得体の知れない何らかの音が鳴っている。お笑い番組では意味のない無闇やたらな大声が発せられ、それが受けているようだし、どこでも馬鹿騒ぎが流行っている。

 このようにのべつ幕無し音が鳴り続け、生活の隅々にまで音・雑音が氾濫している国は、他には余りないように思う。或いはもしや、これは平和の象徴なのであろうか。

 

 1998年3月31日付けをもって群馬交響楽団を退団し、4月1日付けをもって群馬県太田市文化振興事業団に課長待遇という形で奉職した。この時、群馬県知事であり群響の理事長でもあった小寺弘之知事は太田市への橋渡しとして正式移籍措置を施し、群馬県での私の立場を明確化してくれたのであった。いわゆる単なる退団というよりも、ある意味栄転という身分の証を与えてくれたかのようであった。譬え表面的なこと形式的なことであっても、そういう計らいは人間としての有り方というものであろう。私が『太田芸術学校』の副校長として任に就くことが県レベルで公認されたことになる。

 

 ここで敢えて付け加えておきたいことがある。私は、群響を辞める1年ぐらい前から大型免許と牽引免許の教習に通い、両者の免許証を習得している。

 実は、音楽主幹就任後、たちまち楽員との齟齬が発生、というか理解が得られなかったと言った方が近いかも知れないが、とにかく「もう、これ以上やっていられない」という感懐であった。また今更東京へ戻ったからといって、何かが出来ると言う確証もなかった。「ならば、いっそのこと音楽界から足を洗おう」と覚悟を決めたわけで、もし太田市からの話がなければ、恐らくそのまま即トラック野郎に変身していたに違いない。

 しかしながらたとえ太田市からの話が舞い込んだからと言って「幸か不幸か、トラック野郎をやらずに済んだ」とは考え難い。かつてドイツから帰国するに当たって、「いよいよとなればトラック野郎へ変身する」という思いがすでにあったからである。

太田市に奉職したことが無意味であったなら、あのグランドフスキーが忠告した通り、再度不幸への道を選択したことになろう。

 

 太田芸術学校は、確か1996年に太田市長清水聖義氏の肝煎で始められたようである。芸術学校とはいっても子供及び青少年を対象とする音楽塾みたいなもので、大人は対象外であった。

 

 太田芸術学校では、私が就任する前から、名前は忘れてしまったしどのような人物であったかも不明のままだが、その某氏によって授業展開されていた。私が就任する前のことである。ところが、何か偏った教育法を行っているとか、某氏が独自に生み出したメソッドなるものを子供たちに強いているとか、某氏の作った教則本を強制的に購入させているとか、あれやこれや問題ありと見て取った市関係者が某氏に改革を求めたと言う。そんな中にあって、この改革には私が適任であると画策した人がいたらしい。

 

 就任後、さっそく現状を視察した結果、某氏のそれは明らかにマガイモノの音楽教育であろうことを私も認識せざるを得なかった。既存の超有名な何何メソッドの亜流というか、物真似であろうと推察した。まさに役所の立場を利用して個人的ビジネスを展開していると見て取れた。

 そこで私が真っ先にやらされたことは、勿論改革なのではあるが、私の名において否応なく某氏を追いやることで、その追い出し作戦の先鋒を担がされたことであった。結果として、某氏には太田芸術学校から出て行ってもらうことになったわけだが、言わば私は見事に見えぬ力に誘われ悪役を演じさせられたことになる。

 

 体制づくりのスタートでは、先ず某氏のやっていた教育法を一掃し、綿密なカリキュラムを構築し講師陣を充実させることにあった。それと共に群馬県が中心となり主催していた『ぐんまジュニア・オーケストラ・ミュージックキャンプ&フェスティバル』についても、太田市が会場にあてがわれていることで引き続き担当することとなり、必要とされた新たな発想に神経を注ぐことになった。

 私は、実質四年間任に就き、業務を遂行した。しかし最終的には追い出されるはめになってしまった。私利私欲を求めたわけではないにもかかわらず、私も某氏と同様の仕打ちを受ける羽目になるとは・・・何とも皮肉な話である。

 

 しかし私は自負している。神に誓って言える。間違ったことは全くしていない。確実に成果をもたらし、無二の屋台骨を構築したつもりでいる。

 その屋台骨が多くの文化を育む人材を生み出したのである。だからこそ、この屋台骨だけは、何としても、誰か心ある人物によって維持して欲しいと心から願うばかりである。

 

 「屋台骨が出来ればもうお払い箱」という、何ともお粗末な猿芝居で幕は閉じられた。まさに「笑い者」という類のものである。果たして私のしたことは、その程度の評価でしかなかったということになる。誠に悲しい。しかしこの屋台骨を維持するためには、私以上の能力の持ち主が必要になることは誰も気づいていない。この屋台骨を崩さないためにはどれだけの力が必要か判断できない役所の、将来を見据える力量の無さを考えると私の心は闇に追いやられる。

 清水聖義市長の私に対する処置処遇に疑問を抱いた市民も少なくはなかったようだが、保身に加担する際の組織の力というのは実に強靭である。独善的の走る情けなさを痛感するが、役所というところはまさに伏魔殿としか言いようがない。

 

 今更愚痴を言ったところでどうなるものでもないが、黙っていられないこともある。とにかく、私が4年間で何を実践したかについては是非とも書き留めて置きたい。記憶に残っている事柄、現在手元にある資料をピックアップしながら辿ってみるとしよう。

 

 先ず初めに、役所の担当者(多分私の部下だった人間だと思う)が私の志を汲み取って書いた『おおた芸術学校の設立と付属団体』という概要文書があり、大変良くまとめられた文章だと思うのでそのまま掲載したい。恐らくこれは、何れかの公的機関へ提出すべく書かれた資料だと思う。また更に私が設立した「太田フィルハーモニーに寄せる期待」と題した私の一文も添えられているが、それはここでは省略する。

 概要文書は、当ホームページの【各種資料】に掲載してあり、それを読めば分かることだが、古いコピー紙をスキャンしたものなので読み難いかも知れないので、一応下記に書き写しておく。

 

☆☆☆

 

【おおた芸術学校】

 

 太田市は、平成8年4月に現在の「おおた芸術学校」の前身として「太田市民芸術学校」を太田市教育委員会内に設置しました。児童生徒にオーケストラ楽器を学ばせる目的でスタートしましたが、運営面や指導面で諸問題が発生したため、清水聖義市長は群響の首席チェリストで音楽主幹をしていた瀬越氏(現副校長)に白羽の矢をたて、平成9年度より瀬越氏の身分を太田市へ移籍するとともに、芸術学校の企画運営を託すという思い切った手段を講じたのです。

 瀬越氏は、1年間の太田市における活動の中で、基本を重視した指導体制や公的機関が行うメリットを生かした企画と運営。また、それを実現するための専門家による組織編成と独立した施設の必要性を強く感じ、それを市長に提言したことにより、平成10年4月1日、現在の「おおた芸術学校」が新たに誕生することとなりました。

 現在、「おおた芸術学校」で基礎を学ぶ児童生徒は、オーケストラ科、合唱科、演劇科の約200名と、オーディションに合格し、本格的な活動を目指す芸術学校附属のオーケストラ、劇団、合唱団の約100名が学び、それを指導する専門講師は県内外より招聘した30名にものぼります。

 

【おおた芸術学校附属オーケストラ「ジュネス」】

 

 平成10年4月、青少年の本格的なオーケストラ活動を目指して、広く近隣より公募を行い、オーディションに合格した青少年を対象に「ジュネス」を結団しました。当初は24名でスタートした「ジュネス」も、団員の熱心な活動の成果もあり、現在は60名を越える、大人顔負けの本格的オーケストラに成長しています。

 小学生高学年から高校生までの、大人以上に多忙といわれる年齢層にもかかわらず、団員たちは本業である学業と両立させながら、実に95%以上の練習出席率を示しています。

 活動は、年に1度行われる定期演奏会とは別に、市や官公庁から依頼される催し物等への出演は年間5~10回にもなり、多くの市民への「おおた芸術学校」に対する理解に大きな貢献を果たしています。

 結団してから短期間にもかかわらず、急成長を遂げている「ジュネス」の活動は、今や、太田市の芸術文化の象徴として市民の期待の的となっているところです。

 

【おおた芸術学校附属劇団「松ぼっくり」】

 

 平成11年10月、日本で一番伝統があり多くの名優を輩出している劇団「民藝」の協力により、平成12年4月に結成された附属劇団「松ぼっくり」の準備コースが設けられました。団員はオーディションに合格した青少年で構成され、指導者は劇団「民藝」の俳優や声楽、体操の専門家があたり、公演に際しても「民藝」の演出家、脚本家、照明、音響などの本格的なスタッフが携わります。プロの指導による団員の成長はめざましいものがあり、「ジュネス」とともに今後の活動が期待されています。

 

【おおた芸術学校附属合唱団】

 

 平成3年4月、付属の第3弾として青少年による合唱団が設立されました。オーケストラと同様に、基本を重視した本格的な合唱を目指しており、その道の専門家が指導者としてあたっています。青少年の付属団体である「ジュネス」、「松ぼっくり」とともに国民文化祭に向けての活躍が期待されています。

 また、この「コール・エンジェル」の設立により、青少年による芸術文化活動の総合的なシステムが構築されるとともに、青少年を育てることにより、文化の発展が未来に循環するシステムも幅の広いものとなりました。

 

【太田フィルハーモニー交響楽団】

 

 平成10年7月、一般を対象とする市民オーケストラが設立されました。これは芸術学校の施設や備品、指導面含めた環境が整えられつつある中、タイミングをはかり瀬越氏の発案で設立されました。

 団体の性格とすれば、大人の任意団体ですが、瀬越氏が音楽監督に就任することにより、芸術学校が掲げる芸術文化の生涯活動との一体化が可能となりました。太田市が子供のために用意した大型楽器などの備品や設備が利用できるだけでなく、必要に応じて芸術学校の指導者が配置できるなど、他の市民オーケストラが羨むような環境で活動しています。 

また、先に結団した「ジュネス」の活動が市民に大きく認められたことにより、芸術学校の環境が更に整いつつある今日、青少年オーケストラと大人のオーケストラの活動が地域文化の発展に大きく貢献することとなるでしょう。

 活動としては現在、年1度の定期演奏会とファミリーコンサートを主催事業として開催するほか、発団時には、県民芸術祭に県内アマチュアオーケストラの代表として出演を果たしています。

☆☆☆

 

 たとえアマチュアのオーケストラだからといって、ただ好きで漫然と宙ぶらりん状態で活動すれば良いというわけではなかろう。地域に密着した正統な音楽活動を展開する義務があって然るべきである。子供たちから大人まで、分け隔てなく音楽の環境を共有する権利があって然るべきである。

 おおた芸術学校の環境が順次整備される中、青少年と大人の相互の音楽活動が地域文化の発展に大きく貢献できるものと、私は確信していた。

 

 そして2001年11月、「第16回国民文化祭・ぐんま2001」が開催されることになったことを知り、私は太田市長に強い要望書を提示した。その要望とは『オーケストラの祭典』と『青少年による創作楽劇』という二つの壮大なる企画と実行であった。これは未だかつてない企画であり、おおた芸術学校で構築したことが間違いなく活かされるものと判断し、自信をもって提言したのである。

 ただ一つだけ心残りは、オーケストラの祭典において、本来中心となるべき群馬を代表するアマチュア・オーケストラ【群馬シティフィル】を差し置いて進言してしまったことであった。気配りが欠けていた。後に交渉したのだが、案の定参画を断られてしまった。かなり機嫌を損ねていたようであった。県の合同委員会で議決される前に相談しておけば良かったと後悔している。

 

 『オーケストラの祭典』では、カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」を飯守泰次郎の指揮で披露した。数百名のアマチュアの合唱団と、全国から選りすぐりの30団体のオーケストラ参加が得られ、お陰様で大成功を収められた。決して私だけの力だけではない、おおた芸術学校の関係者、そこから派生する幾多の指導者の協力の賜物であった。

 そしてもう一つ『青少年による創作楽劇』は、太田市及び近隣の青少年の参加と熱意により、並々ならない感動がもたらされ、大成功を勝ち取った。青少年の秘められた可能性というものを大いに褒め称えたい。

 

 最後にもう一つ、書いて置かねばならないことがある。それは私の発案の一つであったおおた芸術学校併設の楽器製作学校のことである。これについては、新聞三社が取り上げた新聞記事が残っているが、私の話し方に問題があったか、或いは説明が足りなかったか、正しく紹介されているとは言い難い。どちらかと言うと大げさに取り上げられてしまったきらいがある。役所のいずれかの部署の部長がこの件について耳に挟み、目的を確認しないまま早まって大袈裟に公表してしまったことが原因と思われる。

 私の意図としては、優秀なる匠を生み出そうとか名器を生み出そうとか、そういった大それた夢のようなことではなく、また職人を養成する本格的な製作学校を設立しようということでもなかった。まあ夢は大きいほど良いのかも知れないが、先ずは種を植えることからという気持ちであった。いずれ芽が出て、それから考えることも多々あるかと思っていた。

 

 例えば、もしオーケストラに参加したくても楽器が買えない境遇の子供たちがいたとしたら、何とか無償で楽器を提供してあげたい。しかし市の予算ではなかなか難しい。良い方法はないものかと試行錯誤した挙句に思い浮かんだのは、「自前で用意できたらどうだろう」というものであった。

 そしてそれを推進すべく一つの方法論として、楽器作りで世界的に名高いドイツのマルクノイキルヘン市と姉妹都市を結ぶことによって様々な可能性を誘発し、結果優秀な匠がたとえ一人でも訪れ太田に定着してくれればという素朴な願いであった。そして楽器作りに留まらず、派生するであろう多くのメリットがあることも密かに期待していた。

 つまり近隣のプロやアマの多くの演奏家にとって好都合となであろう、例えば楽器の修理やメンテナンスを近場でやってもらえるというような理想的環境の実現、その可能性の追究であった。

 当時、いや恐らく今でもそうであろうかと思うが、楽器の修理や弓の毛の張替えをするとなると、地方の音楽家は誰しも東京近辺まで足を運ばねばならない。高崎に一人二人の匠がいたかと思うが、東毛地区には皆無であった。だから殆どのプロは東京まで行かざるを得ないのである。

 

 まあ、しかしいずれにしてもこの案は潰されて良かったと思っている。ベルリン在住の義兄の並々ならない厚意と協力により、マルクノイキルヘン市長とは気持ちが通じ合えて有効な談合が行われ、姉妹都市提携は目前のところまで進んだ。ところが何を思ったか、太田市長は突如キャンセルしたのである。この理由や意図については聞かされないままである。

 文化の心を持ち合わせていない太田市長と文化を重んずるマルクノイキルヘン市長と手を組まずに済んだことは、ある意味幸いであった。

 完全アメリカナイズされた清水聖義市長の人格では、ドイツ圏との友好は所詮平行線を辿り無理であったろう。こういう結果もまた、話がスムーズに進展したように見えて提携した後になって中途半端な形で決裂し顰蹙を買うより、提携直前で太田市長の側からストップが掛かって正解であったと思う。

 

 そう言えばもう一つある。2002年1月16日、私が太田市を去る4か月ほど前のことだが、東京の都道府県会館で元片山虎之助総務大臣から『活力のあるまちづくり・総務大臣表彰・人づくり部門』を授与されることになった。取り敢えずおおた芸術学校芸術総監督として、私が一応表彰状と記念品を受け取ったが、それは単なる政治的な形式上の作業であり、つまり太田市長の名誉となれば良いだけのことで、他には何の意味も成しはしない。

 

 清水聖義太田市長は、きっぱりと私に言った。

 「あなたはやり過ぎた!」

  西洋音楽における文化が正統的に定着していない地域において、いやこれは日本列島津々浦々に及ぶ問題であると思うが、言うなれば日本における西洋音楽の理解度は極めて低次元にあるといっても過言ではないであろうし、そんな状況下にあって私が実践したことなどは「やり過ぎ」どころか、ほんの基礎の部分でしかない。

 文化が何たるものかを知らない人間に文化を語ることはできない。私は清水聖義太田市長に対し文化の力が人間を動かすと過度に期待をしてしまったのかも知れない。

 また同様に清水聖義太田市長は、私が権力という名のもとに文化を放り出すに違いないと思い込んだのかも知れない。

 中途半端のまま放り投げて平気の平左でいられる清水聖義太田市長には、『真の文化』を語る資格などあろうはずがない。しかし、青少年に必要なのは真の文化の心である。

 まさに文化とは掛け離れた政治的意図の権力絵巻に心を奪われ、真の文化への情熱より権利者への忖度で選ばれた人間たちが文化を操り、見せかけの活動の場と化したお粗末な状況という結論である。

 

 突然解任告知を受け、私は少なくともその真実を求めるべく、清水聖義市長宛に郵便配達証明による文書を送ったが梨の礫であった。一寸の話し合いも許されず、完全無視であった。問答無用と言いたいのであろうが、本当のところはどうだ・・・肝っ玉の問題か!

 天下の市長たるものが、その程度の人間性をもってして人の上に立っているという実際を市民は許しているのであろうか。

 

 私は、群響時代に建てた前橋の家を売却し太田市龍舞町に新たに一軒家を建てた。そこを終の棲家とするつもりであったが、市長の無視(虫)に嫌気がさし右顧左眄もせず即座にその家を売り払う決意をした。太田市に住んでいること自体に意味も意義もなく、すべて馬鹿々々しくなった。

 

 2002年5月、私は家内と共に遂に東京へ舞い戻ることとなった。東京での生活は22年振りとなろうか。

 私が、東京で産まれ過ごした年月よりも、群馬での生活の方が長いように思われた。現在住んでいるこのあきる野には、祖父が建てた墓がある。つまり墓守爺となったわけだ。

 墓は、祖父から父が受け継ぎ、父から私が受け継ぎ、そして今は我が長男坊が権利を継承してくれている。

 

 何はともあれ、私が生涯かけて許せない物事は、真の価値と言うものを見抜けず、真実から目を背け、無視し、裏切り、平然と嘘をつく社会の有り様である。

 本来、文化というものは良いものを良いと判断し得る人間の育成にある。誰が発した言葉か不明だが、まさに「日本の文化はブンカブンカドンドン」なのかも知れない。大宅壮一氏の『日本列島一億総白痴論』のように、その言葉も妙に言い得ているように思う。

 

 お祭りは、歴史の所産として貴重な伝統である。お祭りが好きなのは私も同じであるが、日本ではややもすれば単なるお祭り騒ぎで終わらせてしまう傾向がある。政治力や金権でもって打ち上げる一大イベントが決して悪いとは言わない。それを一瞬の華やかさによる驚きや溜息で終わらせてしまってはならないと言うことである。物事の現象だけを捉えて判断することは避けて欲しいものだ。

一歩一歩の構築と弛まぬ努力こそが、歴史を司る大切な要素なのではなかろうか。

 

 もし、「運命というもの」が神からの授かりものであると言うのなら、私は神に対して従順となろう。

 すべては、神から与えられた試練であると考えよう。

 


 

(27)虚しさを乗り越えて

 

 ドイツのメルケル現首相は、2022年までにドイツ国内のすべての原発を撤廃すると断言した。福島原発事件の後、即座に幾つかの原子力発電所をストップさせたと言う。

 ドイツが歴史上に汚名を残したナチス・ドイツにおける忌まわしい虐殺事件について、メルケル首相は犠牲者となった人々に対し深く謝罪している。今後そのようなことが決してあってはならないと言った。

 この世知辛い時代にあって難民受け入れについても、メルケル首相は謝罪の現れであり義務であると言う。これぞまさしく文化に裏打ちされた国威というものである。

 

 もしや人間は、少なからず残虐性というものをどこかに潜ませているのかも知れない。何処の国も、戦争という名の下で似たようなことをやっている。日本軍とて同様である。ナチス・ドイツばかりを非難し責めるものではなかろう。

 悪意と言うものは、この世から消え去ることはないのか。分別という心があるなら、悪行は生まれないはずなのだが・・・。

 

 バッハ、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、シューマン、リヒアルト・シュトラウス、マックス・レーガー、パウル・ヒンデミット、アーノルド・シェーンベルク等々、ドイツ圏(オーストリアを含む)で産まれ育った数多くの作曲家たちがいる。彼らが、如何にして巨大な音楽史を構築して来たかをじっくり紐解く必要があろう。

 そこにこそ、ドイツの文化における文化の所以たるものが隠されているのだと思う。

 

 日本は、第二次世界大戦において大敗した。その戦争に加わり、辛うじて生き延びて帰還した父から色々なことを聞かされた。

 父がまだ戦争に送り出される前の話である。大のクラシック愛好家で、収集していたレコードは沢山あったと言う。フルトヴェングラー指揮するベートーヴェンを好んで聴いていたらしい。しかし、それらのレコードは、敵性音楽と見做され一枚残らず没収されたのだと言う。横文字が書いてあればすべて敵性であると見なされたようだ。認識不足が甚だしいというか、極めて幼稚な見解と判断であった。

 日本とドイツは同盟国だったはずである。

 

 このあきる野市に引っ越して来て15年になった。東京とは言え、郊外にあり自然に恵まれた土地である。齢54にして墓守爺と化したわけだが、否が応でも生活はせねばならない。取り敢えずは雇用保険なるものが適応されたので、それで当座を凌いだ。年金を受け取れるまでにはまだ数年あった。

 家内は強く反対していたわけが、それこそトラック野郎になろうと内心決めていたことは確かである。とは言え、歳を取ればとるほど、そういった荷物を扱う労働がだんだん厳しくなるであろうことは認識していた。

 

 雇用保険は、収入に繋がらなくても仕事をしていることが判明すればストップされるので、暫しそれに甘んじて暮らした。

 また、それまで一度も外で仕事をしなかった、というよりか私の主義でさせていなかったことになるが、家内がパン屋で働くようになった。お陰で並みの生活が出来るようにはなったが、恐らく家内にしてみれば、私にトラック野郎をさせないという心づもりがあったようである。

 

 雇用保険の支給が終わり、さて何をしようという矢先であった。太田市時代に私が実施していた音楽鑑賞教室などで何かと世話になった東京パシフィック管弦楽団の主宰者森田祐司氏と再会するきっかけを得、話の流れで彼の楽団で演奏させてもらうことが決まった。結局それが、その後年金を受給するまでの私の唯一の収入源となった。こんな中途半端な私を快く使ってくれたこと対し、森田氏には心から感謝している。

 

 音楽鑑賞教室については、私が群響に入った当初は主流の演奏活動であった。まさに映画『ここに泉あり』に描かれた通りの状況で、山間僻地の小学校や中学校へ赴くというものであった。後に改善され、各学校に呼びかけて児童生徒を大ホールに集め執り行うようになったが、私は終始一貫して音楽鑑賞教室は各学校の体育館で実践すべきものと考えている。

 そんなことで私が太田市に奉職したばかりの頃、芸術学校がまだ教育委員会に所属していたこともあり、小中学校の音楽鑑賞教室も手掛けることになったが、群響の提起する子供たちを大ホールに集めて実施することに反対を唱え、検討の結果、太田市は独自に音楽鑑賞教室を展開する方向を選んだのである。

 森田氏とは、ある人物に紹介されて出会うことになったのだが、相互の意見が一致したことで音楽鑑賞教室の協力を要請した次第であった。そのような経緯があった。

 

 また更にその時分、高崎で英語塾をやっていた弟子が私を訪ねて来たことで、チェロ・デュオをやってみよということになった。彼女はハンガリー人で、アメリカで英語を学び日本人男性と結婚、ご主人の地元高崎で大きな英会話教室を展開していた。

 彼女、金子ユディットさんは、当時私が群響で弾いている姿を見て興味を持ち、「レッスンを受けたい」と言ってきたのであった。勿論断る理由がないので承諾、後日レッスンに及んだが指導するも何もない。彼女のレベルはプロ並みであり、聞けばハンガリーで産まれ幼少時からチェロを弾いていたと言うではないか。青少年コンクールで優勝したこともあったらしい。誰もがそのままプロへ進むと思っていたらしいが、何と音楽では飯を食うことが難しいと悟り、英語を学ぶべくアメリカへ留学したとのことであった。

 彼女の一族は、皆優秀な音楽家で、亡きお母様(Bensze Laszlone)はコダーイ・メソッドの民族音楽学者、叔父様(Mezo Laszlone)はバルトーク・カルテットのチェリスト、その他も皆音楽家ばかりである。そして日本で産まれたご子息・金子三勇士君も今や一流のピアニストとなり世界的に活躍している。血筋というのは凄い。しかし、これもまた歴史のなせる業であろう。

 それがどうしたと言われればそれまでだが、私と言う三文音楽家はなかなか日本人には理解されない部分があるようなのだが、何故かヨーロッパ人には解ってもらえるのかも知れない。彼女のお母さまも、私のことを「日本にはいない音楽家だ」と言ってくれた。

 そんなわけで、彼女には沢山のコンサートの場を提供してもらいチェロ・デュオを実践した。そのお陰で随分と生活が楽になったことは事実である。

 また彼女の力添えによりCD『作品集』を製作販売することも出来た。

 

 それと余り感動を覚えなかったのでうっかり忘れていたが、かつて私の『すみれ』を初演してくれ、また一時期室内楽を共にしたことのある松野迅氏とひょんなことで再会することとなった。私が東京へ舞い戻り右往左往していたのを見て同情したようで、また一緒に室内楽(室内楽INNも含む)をやらないかと誘いがあった。

 取り敢えず私は何をするでもない情況にあったので、それではもう一度試みて見ようかと思った次第である。久々の室内楽INN(その時は場所を白馬へ移していた。)に演奏者として参画、元々は私が発案した「音楽の集いの場」であるから、懐かしさが込み上げたことは確かである。しかし、内容はかつて実践していたものとはややかけ離れたものとなっていた。無論のこと、今更私が口を挟む余地などない。

 松野迅氏と亀田美佐子女史と共に再び室内楽をするようになり、日本のみならずポーランドやドイツの田舎町などでコンサート・ツアーも行ったが、結局相容れない情況が発生し再び決裂。ただし一つだけ、ワルシャワの聖マリア大聖堂において地元のオルガン奏者のパイプオルガンの音色に包まれながら『すみれ』の演奏が出来たことは、大変有難き、良き思い出となった。

 それと、その短い期間の中で、たまたま松野迅氏に紹介してもらって知り合ったギタリストの田嶌道生氏とは、幸いにして馬が合い幾多のコンサートでデュオを行った。『作品集』とは前後するが、たった一枚だけ日本ビクターの関係者にお世話になりCD『ソネット』を製作販売するに至り幸いであった。

 

 お世話になった皆さんには大変失礼と思うが、とにかく私は年金受給が得られるようになるまでは何としても演奏を続けようと思っていた。人に迷惑を掛けないよう心掛けながら、可能な限り頑張ろうと思ってやっていた。

 

 そして数年が経過し、齢60になり、前倒しで年金が受け取れる年齢になった。前倒しの場合は多少支給額が減少すると聞いていたが、五年待たずに思い切って受給申請をした。

 これにはもう一つ理由があった。母が「私は65歳になるまで絶対もらわない」と頑張っていたのだが、丸々の年金を受給し得る65歳のところで死んでしまったのである。その分父に回るかと思えば、母の分は父には適応されないと言う。父は軍人恩給(名称は定かではない)とやらをもらっていたと記憶している。

 そんなわけで、私もいつ死ぬるかもわからないので前倒しで微々たる年金を受給することにした。

 

 現在古稀に達している。これならあと五年待てば良かったとやや後悔気味である。しかし、話は引き続き年金のことになるが、二年前に家内も65歳になり年金を受給している。ところが何と、それ以来私が受給していた年金が減額となった。いわゆる私の年金から差し引かれる形になったのである。結局生活が楽になったわけでも何でもない。家内には、齢67にして未だにパン屋で働いている。立ち仕事はだんだん厳しくなるはずである。

 やっぱり私は東京へ戻った時点で完全に音楽を捨て、トラック野郎に変身していれば良かったとつくづく思ってしまう。

 

 夫の年金は、夫が亡くなれば妻に移行されるが、妻の年金は妻が亡くなっても夫には反映されないらしい。ということは、もともと夫が丸々支給されていた金額というものは、もしも妻が亡くなれば消えて無くなり元に戻らないことになろうか。実に、解らん。頭がこんがらかる。

 

 私の演奏の仕事もいよいよ減少し、きわどいところまで来た。四十年余り愛用した名器【ジョバンニ・バティスタ・ロジェリウス】をついに売却する決意をしたのである。ロンドンのクリスティーズというオークションに出品することを決め、英語の堪能な友人に同行してもらいロンドンへ渡った。

 出品前に鑑定をしてもらうべく、ベアー(この名前はもしや記憶違いかも知れない)という世界的に知名度の鑑定家を訪ねた。鑑定書が三通添えられている楽器であった。

 

 この楽器については、ベルリン滞在中にフィンケ教授の紹介でめぐり逢い、ベルリン・フィルのチェリスト達も太鼓判を押していて、わけてもイヨルク・バウマン氏は出来ることなら自分が買いたいとまで言っていた。

 楽器を持ってバウマン氏の家まで行き二人で弾き合いをしながら品定めをした。彼の家の天井は高く広々としていたので響き具合を確かめるのに最適であった。「これは間違いなく良い楽器だ」と二人で頷いた。以来ずっと本物であると信じていた。

 

 ところがベアーの見立ては違っていた。「最高の楽器であることは確かだが、本物ではない」と言った。恐らく、弟子の誰かが作ったものであり師匠から許可を得て【ジョバンニ・バティスタ・ロジェリウス】と名を打って世に出されたものであろうと言っていた。

 また、鑑定書というものは鑑定した本人が生存していることで価値があり、亡くなられた場合は価値がなくなるのだそうである。新たに鑑定書を書いてもらうには100万円かかるのだそうだ。多分ベアーにお墨付きを書いてもらっていれば、オークションにおいて基本の付け値が良くなる可能性があった。しかし私はそれを選択しなかった。そのまま出品して落札された値段で構わないということにしたのである。

 

 父が、新たに家を建てようと残していたお金で購入した楽器であった。凡そ500万円である。お陰で父母は田舎暮らしをするはめになったが、良いものであれば財産になると、ある意味喜んだほどであった。つまり500万円あれば、家の一軒も建てられる時代であった。

 

 クリスティーズでは、結果として取り敢えずそれに近い値段で落札されたが、購入した当時と現在とでは貨幣価値が違う。推して知るべしだが、本物ではなかったにも拘わらずその値で売れたということは、先ず先ずのものであったこと言えようか。

 もしそれが日本に渡って来ることがあるとすれば、少なくとも倍の値が付くであろう。そうであるなら、わざわざクリスティーズに持ち込まなくとも日本で買い手が見つかれば、それに越したことはなかったのかも知れない。しかし、後でいちゃもんをつけられても嫌だし、後腐れのない形が一番であった。少なくともクリスティーズなら正当な評価で売買が成立すると考えたのである。

 

 もう一つ、ベアーが興味深いことを教えてくれた。「日本に渡り名器とされている楽器の殆どは偽物」だそうだ。たとえ鑑定書が添付されていても信用してはならないと言う。

 

 そして楽器を売却した後のことだが、チェロ・デュオを共にした金子ユディットさんの厚意により、彼女が所有していた二本目のチェロを借用することになった。無名の楽器である。恐らく150年ほど前にオーストリア近辺で作られたものと思われる。日本で購入すれば100~200万円を下ることのない、しっかりした優良楽器である。

 ただしこのチェロは、数年前、彼女の家の事情で販売しなければならなくなり、私が買い手を探すことになった。

 私は半信半疑ながら、早速かつての弟子に話を持ち掛けてみたところ、幸い直ぐに商談が成立。その弟子が購入してくれることになったのである。つまりその時点から所有者が変わったのである。

 しかしながらこうした経緯の中には、一つの人間の心の温かみを象徴する無二の恩情が込められていることを、この場できちんと書き留めておきたい。

 その弟子というのは、私の最後の弟子となったKさんという伊勢崎市で開業医をなさっているお医者様の奥様で、「瀬越先生にはいつまでもチェロを弾いていて欲しい」と、実は私のために購入してくださったのであった。

 中途半端な音楽生活にあってチェロを弾くのもままならない情況の中で、私はこのチェロを預かっていること自体気がひけ、幾度も返却すべく申し出たのだが頑として受け入れてはもらえなかった。

 チェロを拝借するようになってから、いつの間にかもう数年が経ち現在に至ったわけだが、石場惇史君による演奏の場の提供や更にバッハの無伴奏チェロ組曲の全曲解析へ向けての奨励を受けながら不慮の復活を試みる中、漸くKさんの恩情に応えられるかも知れないという実感が持てるようになって来た。

 Kさんには、やっと本当の意味での感謝の念が届けられそうである。

 

 とにかく東京へ舞い戻ってからというものは、音楽をすることにおいて気力を見出すことがなかなか出来なかった。しかしほんの数人の良き理解者によって助けられ、救われたのも事実である。

 

 いつしかアマチュア・オーケストラからも声が掛かるようになり、オーケストラの指導、いわゆるトレーナーを頼まれ幾つか引き受けては見たものの、残念ながらどうしても意味や意義を見出すことが出来なかった。私のアドバイスが活かされているとはどうしても思えなかったし、それゆえ謝金を受け取るのが心苦しかった。

 オーケストラには常任指揮者がおり、結局本番を振るのはその常任指揮者であるからして、私の指導で一瞬響きが改善され表情が豊かになったとしても、最終的には「もとの木阿弥」になるわけである。

 私に指導を求めたオーケストラの団員たちも、そんなことはお構いなしで気遣いもない。彼らにとっては、ただ目新しいらしいものをその場で体験できればそれで良いというわけである。

 私にとって、やり甲斐というものは全く生まれようもない。

 

 チェロのレッスンについて、この場合も幾許の声が掛かったりしたものの、現在住んでいるマンションの部屋が極めて狭いという理由もあり、基本的に教える気にはなれなかった。たった一人、陶芸をやっていた某アマチュア・オーケストラのトップの人だけは、例外的に少しだけ自宅で見たことがある。それともう一人、やはり別のアマチュア・オーケストラのトップで、某有名大学の教授をしていた人の場合は、氏の自宅へ赴き出張レッスンをした。これはたった一度きりであった。 

 いずれにしても、教えると言うことは大変なことである。レッスンが成功するか否かは、上手い下手の問題ではなく、音楽的意味をどれだけ理解する能力を持ち合わせているかどうかに拘っているのである。

 教える側と教えられる側の相互の在り方は、本来利害関係を前提として成り立つ問題では決してない。

 

 そんなわけで、私のような偏屈な人間は、何もしないでいるのが一番である。

 

 今から二年足らず前のこと。私はついに音楽を断念した。長年演奏会でお世話になって来た群馬県境町の弘教寺(ぐきょうじ)における『お寺deコンサート』で引退宣言をし、それを最後に完全に音楽界から足を洗った。

 この最終コンサートでは、前橋在住中に私の門下となり、私が東京へ移ってからも時々顔を出してくれる一番弟子の横尾武宜君と一緒に演奏出来たことは、何よりの記念となった。心の優しさは何物にも代え難い。

 弘教寺住職の並々ならない理解を賜り、引退に相応しいコンサートが出来たこと、心から感謝している。

 

 そしてたった数ヶ月前のことである。心友石場惇史君と三十余年振りの邂逅が得られ、ゆくりなく新たな出発を可能にしたのであった。

 「古稀にして立つ」と言っても良いのであろうか・・・

 

ー 完 -

 


備忘録


(28)2017年9月現在・・・

 

 過日、おおた芸術学校時代の生徒が二人、この東京の外れまでわざわざ訪れてくれた。当時私が彼らに何を指導したというものでは全くない。彼らは、いわゆる私が企画立案したカリキュラムに積極的に参加し、一緒に音楽を作ってくれた仲間である。

一人は、ブダペストに住み正統的な指揮者の道を着実に歩んでいる金井俊文君。そしてもう一人は、ソロ・サキソフォン奏者を目指すべく更なる研鑽を積み重ねている茂木建人君である。

 二人共、すでに優秀な音楽家であり素敵な人間に成長している。将来の日本の音楽界を背負って立つべき優秀な人材である。紆余曲折あったが、当時私が在籍したおおた芸術学校からこのような人材が育ってくれたことは、至上の喜びである。

 

 金井君とは、彼が白鴎大学足利高校のピアノ科の生徒だった時代からの付き合いであり、後におおた芸術学校附属オーケストラ『ジュネス』の幾多の公演に鍵盤楽器で参画してくれたことがあった。

 彼は、同高校チェロ科の講師をしていた私のところへやって来て、突然指揮を教えて欲しいと言った。その時の細かい遣り取りについては余り良く覚えていないが、彼の熱意に感銘を受けたことは確かである。

 私は一介のチェリストであり、指揮者ではないのだから指揮を指導する術はない。何故彼が私に指揮を教えて欲しいと思い付いたのかも良くは分からない。ただ、彼の熱意を無下にはできず、いわゆる指揮法というものではなく、私がそれまでに得て来た経験にもとづく音楽的見解なら伝えることができるかも知れないと、半信半疑で受け入れたような気がする。

 いずれにしても彼は、多くの様々な事柄から何かを捉え吸収し自分のものに昇華する能力を生まれながらにして備え持っているのだと思う。海外での活動は結構忙しいようだが、帰国した時にはその都度顔を見せに来てくれる。果たして、私の音楽における一番弟子と言っても構わないだろうか?

 

 茂木君とは、彼が中学生から高校生のプロセスの中で、おおた芸術学校附属オーケストラ『ジュネス』の団員として入って来た時点からの付き合いである。彼のサキソフォンにおける才能は、その当時から傑出しおり注目に値していた。

しかし、私が太田市を去ってからはずっと会う機会もなく、すっかり忘れていたかと思いきや、彼は私のことを覚えてくれていたようだ。金井君が彼に声を掛けてくれたことがきっかけとなり、三人して立川で落ち合い再会した。

 そして数か月前、渋谷のセルマーというサキソフォン専門店のホールで開かれたリサイタルに招待されたので赴き、彼の演奏を改めて聴く機会を得たのである。才能は見事開花、その成長ぶりに感動した。パリへ留学していたこともあると言う。ただ一つ、テクニックに溺れる傾向があるように感じたが、それは己の心の在り方が解決するであろうと見た。是非とも克服し更なる高みへ上って欲しいと願っている。

 

 二人共、まだ私の年齢の半ばにも達してはいない。ふとその頃の私を振り返ってみれば、結局のところ大事なことは何もしておらず右往左往していたに過ぎない。それを考えれば彼らの成長ぶりには目を見張るものがある。極めて立派である。

 私はこの二人に対し大いなる期待をかけたい。その価値があると確信している。

 

 人間の繋がりというものは、どのようにしてどこまで継続し得るのかということを見極めるのは難しかろう。しかしその可能性は追求すべきものである。友情も然りである。

 それによって如何なる真価を享受し得るかについても死ぬまで追求したい。真実とは何をもって真実と言うか、成就とは何をもって成就と言うか、その答えは計り知れないものであろう。しかし、それを掴めるか掴められないかについての究極の問題は、如何なる結果が現れようとも冥土の土産としたい。

 

 本年2月17日、山武市成東文化会館「のぎくプラザ」エントランス・ホールでの「ピアノとチェロと舞踊のささやき」と題したサロンコンサートにおいて、私はバッハの無伴奏チェロ組曲第1番を舞踊と共に演奏することが出来た。この時点で、私は音楽家復活を悟ったことになる。共演者は、ピアノの河原千尋さん、そしてMACOBA Dance Companyの舞踊家のお二人。

 これについては無論のこと石場惇史君のプロデュースであった。当然彼の信頼度に影響するものであったわけだが、それにも関わらず引退宣言をしたまま一年以上もチェロに触れていなかった私を起用したこと、その厚意と心意気に対し言葉では表し尽くせない感謝の念を抱いている。

 バッハの無伴奏チェロ組曲全6曲の解析を思い立ったのはこの時であり、やはり石場惇史君の協力と励ましにより先ごろ完成に至らしめることができた。もう少し細部調整を施した上で、出来ればいずれは楽譜出版したいと願っている。が、果たして・・・。

 

 来る10月21日には、群馬県伊勢崎市境米岡の弘教寺でコンサートを行う。弘教寺仏教壮年会結成20周年記念コンサート『音楽言語で覗く極楽浄土の世界』・・・石場惇史君が音楽説法を行い、河原千尋さんのピアノ、私のチェロが加わりこれまで類を見ない演奏会ができそうだ。

 2年前、まさにこの寺院において私は引退宣言をしたのである。それにもかかわらず、思わぬ形で突然復帰した私を住職は喜び受け入れてくださり、こうして新しいコンサートの開催が実現した次第である。

 そして更に今回は、特別にレンタル・ピアノの搬入を許可して頂き、河原千尋さんの生のピアノの音色を楽しむことが可能となった。何と素晴らしいことであろうか。

 

 音楽には、言葉があることを認識している音楽愛好家は極めて少ない。歌のように歌詞はなくとも、音律には言葉が秘められているのである。そのことに気づかない、或いは気づこうとしない音楽愛好家が多すぎる。プロであってもアマチュアであっても然りである。

 音楽家のほとんどは、音楽を自己満足の中で終始させてしまっている。つまり楽譜の表面だけしか見ておらず、書かれてある記号としての音をただなぞっているに過ぎない。残念なことに、ほとんどの人はその辺のことを正しく認識していない。

 一応に言われるのは、上手いとか下手とか、有名であるとか無名であるとか、そんな程度の認識であり、その領域から抜け出そうとはしていない。出来ることなら、真実を見抜く能力を一義として養って欲しいものである。物事の根底に秘められている真実を見極め、「良いものは良い、悪いものは悪い」と正しく判断し得る能力、強いて言えば「心」を養って欲しいものである。

 

 石場惇史君は、そうしたところを懇切丁寧に説き明かしてくれるはずである。私は、そのために如何なる協力も惜しまない。そして彼に恥をかかせないよう、彼から与えられたテーマを精一杯熟したいと思っている。

 1年余りのブランクはあったが・・・しかしこの1年余りというのは、いわゆる楽器に一切触れなかった時期のことで、すでにその前から十数年にわたり音楽への執着を失い、たとえ音楽に準じていたとしてもほぼ心あらずの状態にあったのだからして、そのブランクたるや推して知るべしということになろう・・・昨年来、彼の説得で心意気を甦らせ音楽復帰を果たした。新たな音楽人生を歩ませてもらっていることに感謝しながら、私としては彼に一矢報いねばならない。もしや正念場と言うべきであろうか。

 

 私が「古稀にして立つ」と言えば、「今更何をほざくか・・・」という者がいるような気がする。しかし歳を取ってもなお、純なる音楽を貫かんとする心意気の名において、僅かも恥じることはないと思っている。虚栄の中の音楽に溺れる族、或いはただ漫然と職業音楽家に甘んじている族よりはずっと増ではなかろうか、と言いたい。

 

 今現在、一心に音楽を学び、研鑽努力している才能ある若き逸材が、将来の日本の音楽界を立て直してくれることを信じてやまない。

 


 

(29)自由の本質について

 

 本棚を整理していたら、またまたこのような原稿が出て来た。おおた芸術学校副校長という肩書がつけられているので、太田市文化振興事業団に就任して間もない頃、ある新聞社(多分上毛新聞社だと思うが、間違っていたら失礼)から依頼を受け、字数制限付き枠内での連載物として書いたものだ。何故か新聞の切り抜きは見当たらない。切り取っておいた記憶はあるものの、全く所在が分からない。すべてのものを引っ繰り返して探す元気もないし意味もない。すでに破棄したかも知れぬ。

 改めて原稿を読み返してみると説明不足が目立ち、己の文章力の乏しさを痛感する。批判もあろうが、これもまた一つの記録として残しておきたい。

 

☆ ☆ ☆

 

『自由の本質』

~日本の文化と西洋音楽~

                                                                                                             おおた芸術学校副校長 瀬越 憲

 

(1)

 

 日本では、まだ「自由」という言葉が本当の意味で理解されていないように思えてならない。すでに民主主義国家として国威というものを確立しているかのように「言論の自由」や「報道の自由」を謳歌しているが、しかし極めて偏狭的である。「自由」というもの便宜上掲げているに過ぎないのではなかろうか。ややもすると御都合主義になりかねない。

 ヨーロッパにおいて何百年という歴史を有する西洋音楽が日本に輸入されて以来、たかだか100年である。日本人がこの短期間に技術レベルを向上させたのは事実である。西洋人にしてみれば驚異と映ったかも知れない。日本人特有の器用さと勤勉さによるものと判断したかも知れない。技術的には、確かに国際水準に達したのかも知れない。しかし、ヨーロッパ人の示す驚きは、その目覚ましい技術向上に対する注目でしかない。彼らはこの分野において、日本が総合的な意味で自分たちの領域に追いついたという認識は全く持っていないのである。一方日本では、むしろ国際舞台に進出できるようになったことで、ある種の自惚れを高揚させている傾向がある。

 私はチェロ留学生として、たった数年間であったがヨーロッパに滞在した。その間に学んだことは、私の人生において極めて重要なものとなった。チェロの技術や音楽表現についても多くを学んだが、それより更に感謝に値することは、歴史の重みと携わる人々の音楽に対峙する姿勢と類まれな環境について学べたことである。私が滞在した当時と今日では、恐らく情勢は随分と違って来ているかも知れない。当時のヨーロッパでは、例えば私のような一外国人留学生が大学に在籍することにおいて全く差別がなく、学生はすべからく同じ待遇を享受した。国立と市立とで違いがあったかどうかについては確認していないが、私が在籍したベルリン国立音楽大学では授業料というものは一切なかった。秋から冬を第一期、春から夏を第二期という具合に、一年が二つの学期からなっており、学期ごとに納めるものは学生保険(11マルク=約1500円程度)のみであった。

 私の場合、第一子がベルリン大学病院で産まれ、母子ともに至れり尽くせりの完全看護を被り、掛かった費用のすべてはその学生保険で賄われ、更に祝い金まで支給された。

 また、ベルリン滞在に年目にして親からの送金が途絶え苦悶していた時、ベルリン市から奨学金まで享受した。その精神の大らかさに感動した。ドイツ国における学生に対する待遇は、かなり行き届いたものであった。「学び人」のための環境整備と支援は完璧であり、人種差別はまったくなかった。人材育成に対する積極性と責任性が十分過ぎるほど見て取れた。

 「自由」とは、本来個々の責任によって培われるものである。与え合う心を通して、それぞれが生きている実感を得ながら真実を勝ち取って行くものである。単に宗教や伝説、或いは社会性や常識に左右されるのもではなく、人間としての誠意と善意における主体性をもった意識改革、それを誰に憚ることなく追及できてこそ「自由」というものである。

 

(2)

 

 揺るぎない国威とは何か。日本では、当然のごとく政治経済が主流であると考えられている。しかし本来主流となるべきは、人間主体の文化でなければならない。ヨーロッパの歴史を紐解いてみると、文明の発展に伴い常に文化が先行して来た。文化による心の動きを不可欠なものとしているのだ。つまり人間にとって何が大切なのかを明確に捉えている。

 西洋音楽は、日本人の生活のなかに必要なものとして積極的に取り入れられたものではなかった。明治時代に一方的に西洋人が持参したものである。卑近な例だが、日本では第二次世界大戦の際、それを敵性音楽として全面廃止された事実がある。日本人にはアメリカとドイツの区別がつけられなかったと同時に、心というものを介在させる余裕もなかったことを物語っている。

 人間は、基本的に野蛮性を兼ね備えた動物である。いずれの時代においても、人間が戦争を余儀なくしているのはその所以であろう。「人間にとって戦争は必要悪だ」と言った人もいる。とは言え、戦争ばかりにのめり込んでいたら人類は滅亡の一途を辿るしかなかろう。それ故、文化度か問われて然るべきである。

 ヨーロッパは、一つの大陸に幾つもの国がひしめき合っている。国を守るために、それぞれが侵略戦争の歴史を辿った。宗教の戦いであり、自由への戦いであった。痛烈無残な戦いが強いられたが、それでも彼らは国を意識し「自由」を求めた。そして自由への架け橋として西洋音楽を創造し続けたといっても過言ではあるまい。主体性を重んじ、主義と思想を明確化して行った。哲学が生まれた。

 日本における戦争の歴史は、どちらかと言えば遊戯的なものであった。同民族による単なる領地争いでしかなかった。他民族からの侵略については、実質的にはなかったといえよう。ヨーロッパにおける侵略戦争とは、まったく性質が異なっていた。文豪井伏鱒二が小説に書いているが、戦国時代のそれも実際には極めて呑気な様相であったという。映画で見るような熾烈な滅多切り場面などはなく、悠長を絵に描いたようなものであったという。刀は何度も打ち合えば刃がボロボロになり、いちいち研がねばならなかったという。あながち作り話とはいえまい。

 日本は四季に恵まれ、折々に豊かな食糧が確保できる。誠に温存された国である。「日本列島ビニールハウス」といった人もいる。安住に慣れ親しみ、あえて危険に近づかない。起こる物事は穏便に済ませる指向性を好む。すべてに亙って「何となく」という感覚が付いて回る。主体性が無くても生きて行ける国である。むしろ主体性を持たない方が生きやすいのかも知れない。

 日本人の多くは、西洋音楽を難解であるという。だが決して難解ではないことを知ってもらいたい。これほど誠実で正直で人間的なものは無いのだ。言葉では言い尽くせない人間の真実が秘められているのである。まさに主体性の表れである。「何となく」という感覚からは随分と掛け離れているため、つい難解なものと見做してしまうのかも知れない。

 長い歴史を経て熟成されたものである。果たして日本人には、それを心から受け入れることは永久に不可能なのであろうか。

 

(3)

 

 「自由」とは、主体性をもった文化構築のなかで個々の在り方と責任によって啓かれるものである。自分さへ良ければ、という範囲の思考では到底捉えられるものではなかろう。勝手気ままな志向で進めば、行く末は堕落のみである。

 文化が発展している国は、社会福祉も充実している。教育も同じである。人間にとって何が大切かを、文化の名において会得している。一人一人の人間の存在についての重要性と価値観を、正統的に把握しているからである。

 日本では、教育の現場にも様々な問題点が累積しているようである。ことごとく安全性を問われる世の中で、今の子供たちは痛みというものを知らずに育っている。大人たちの宙ぶらりんな自由性と表面的な幸福感によって甘やかされて育っている。そのために子供たちは、人間にとって一番大切なものとは何なのかを学習し得ていないのだ。そして情緒の不安定さをも引き起こしている。

 教育の現場にも本当の「自由」が必要なのではなかろうか。画一化された教材よりも、押し付けの活動よりも、もっと広がりのある空想豊かな生活空間と時間が必要なのではなかろうか。国威ある日本というには、余りにもお粗末な社会現状が浮かび上がる。

 学校教育に西洋音楽を取り入れるという発想は適切であった。しかし、もしかするとその扱い方に問題があるのではなかろうか。音楽を好きになれる要素を持っている子供でも嫌になってしまうような、どこか押し付けがましいものがあるような気がする。つまり自然ではないのだ。西洋音楽が難解なものであると解釈している大人たちが、もしもその感覚で子供たちを指導するとしたら、まさしく齟齬を生じさせ危険な状況を作り兼ねない。音楽を聴かせること或いは楽器を持たせることが、即情操教育に繋がるとは限らない。再度熟考すべき事柄であろう。

 もし主体性をもって正しく導いて行ける術がないのなら、無理に西洋音楽を強いることはない。むしろ大地の匂いを感受するためのカリキュラムを子供たちに提供する方が、遥かに有効であるような気がしてならない。

 日本における音楽教育についていえば、殆どの場合プロ演奏家の育成に傾いている。従ってプロが氾濫している。就職のことを考えれば、まさに狭き門となる。オーケストラが日本全国各地に分散していれば、ある程度は就職難を解消できるかも知れない。現実的には志を断念した溢れ者がいる。

 さても西洋音楽を愛好する日本人は中央に集中し、一見華やかな舞台を展開している。恰も本物は中央にしかいないとでもいうかのような有様である。しかし、それは動もすれば自己満足に終わりかねない。見栄と、思い上がりと、知識披瀝の交錯を増加させているばかりである。

 これからの問題は、地方が中央を凌ぐ独自の発想をもって大きく発展することにある。地方にこそ、主体性を持つ新しい展開があって然るべきなのかも知れない。逆輸入も真なり。

 

(4)

 

 「言論の自由」「報道の自由」というものがある。しかし「自由」に託けて何を発言しても良い、何を書いても良いというものではない。報道機関は正義を重んずるべきである。事実をありのままに伝達する義務を背負っているかも知れないが、場合によっては人を傷つけ陥れることもある。事実は、すべての裏付けを取ってから正しく伝達されなければならない。安易さや手抜きはあり得ない。

 事実は、正義をもって真実へと昇華させなければならない。悪を正し、善を賛美しなければならない。助けること、救うこと、人々を善良な道へと導くことが第一義である。国民に対し、正真正銘、正直であらねばならない。報道の使命とは、何ものにも媚び諂わない真実の表出としてあるべきだ。

 私がヨーロッパで体験したことだが・・・例えばある著名な演奏家がリサイタルで心の籠らないプレイをしたとして、新聞は批評の欄でそれを叩く。見せ掛けやハッタリは許さないのだ。また聴衆にも、そういう場面に出くわした時は決然とブーイングを飛ばす。かなり手厳しい。それだけ聴く側の耳は肥えており、主体性というものがある。

 しかしその反面、これから育とうとする若い演奏家たちの一生懸命なプレイに対しては決して貶すことはしない。むしろ可能性を褒め称えるのだ。皆がこぞって応援し励まし、最善の環境を提供するのだ。因みに日本人は、著名人であればすべて良しとしている。

 「自由」というものが、単に何でも御座れの在り方で許され、奔放なままであって良いのであれば、世の中取り返しのつかないことになってしまうに違いない。強いて言えば、今の日本は何もかもが本末転倒、殆ど中身を失い案山子のように突っ立っているだけである。崩壊を暗示するような物事と思うが、本当にこのまま放置しておいて良いのであろうか。

 西洋音楽には、もう一つ重要なテーマがある。それは「愛」である。すべを支える原動力となり、生きる証となる。

さて日本人は、「愛」というものを完璧に遂行しているであろうか。果たしてそれを民族性と片付けるか、歴史の所以として解釈するか。いずれにしても、主体性を持ち得なければその真実は見極められない。

 日本では、奥ゆかしさは美徳だと言い、謙虚さも美徳だと言う。しかし、今の日本にそういう美徳たる形象は残っているのだろうか。「愛」を遂行できなければ「自由」を勝ち取ることはできない。「愛」は人間の主体性を支え「自由」を啓く。

 「幸福」は、誰もが憧れとして抱く特別の領域である。「幸福」になりたいという願望を抱かない人間は一人もいないであろう。しかし、どれだけの人間が「幸福」を実感しているか。「愛」と「幸福」が一つに溶け合うことはあり得るものと思われるが、真の「自由」が社会生活に浸透しない限り、真の「愛」と「幸福」を享受することは難しいかも知れない。

 

(5)

 

 日本の国民が集中的に文化発展のための取り組みに心を傾け、一挙に意識を高揚させて行けば、人間的な深みを文化として包有し日本の国威は本物となろう。

 往々にして日本人は、文化について誤った捉え方をしている。生活に密着した身近なもの(衣食住)が文化であると錯覚しているようだ。もちろん、それも大切な要素であるには違いないが、もっと大切なものが根底になければならないことに気づいていない。

 今一度、歴史と文化の相関関係についてじっくり考察する必要があろう。取り返しのつかない混沌状態に陥る前に何らかの適切な措置をとるべきなのではなかろうか。

 歴史は繰り返されるという言葉がある。しかしこれは、巷の流行を取り上げて言っているだけで、実際問題歴史が繰り返されるわけがない。歴史は飽くまでも進行するのである。その一歩一歩の積み重ねが歴史となる。進行が早いか遅いかは問題ではない。とにかく踏み込まねばならない。

 日本という国が先ずもって行うべきは、物事の本質へと一歩足を踏み入れ決然たる開花を求めることにあろう。

 果たして日本人の多くは、もしや生きている実感を肌で捉え心の中でそれを噛みしめながら生活しているだろうか。或いはただ単に流されて生きているに過ぎないのではなかろうか。願わくは、前者であって欲しいが、現実的には表面的であり冷ややかなものの方が多く目に映る。

 西洋音楽を難解なもの、面白くないものと決め込んでいる日本人が大半である。そのような人々のために様々な企画を考案し工夫を凝らしながら、少しでも多くの人々に少しでも興味や親しみを持ってもらいたいと努力をしている活動家は少なくない。音楽関係者に限らないが、果たしてそうした苦心の推進作業は、日本人の生活に西洋音楽を浸透させる要因となり得るであろうか。西洋音楽を心から楽しむ方向へと導いて行けるであろうか。幾許かの不安がよぎる。

 もしも日本人に、主体性の意味を理解することが困難であるとしたら、国際人としての文化を強要してはいけないのかも知れない。むしろ日本人は、日本古来の文化だけに執着していれば良いのかも知れない。とはいえ、すでに西洋音楽は取り入れられ社会的に認可され、厳然として根を下ろしている。多くの愛好家が存在し、一部には華やかな舞台も繰り広げられている。たとえそれが空回り状態であったとしても、諦めて放棄することはできまい。何とかして正統性に向け軌道修正を試みるべきであろう。その意味で、確かに正統論を説くだけでは埒が明かないかも知れない。将来を見据えた地道な活動が見直され、継続されなければなるまい。

 日本の国威を明確化するのは政治家ではなく、国民である。豊かな文化国家を構築するのは国民である。国民の一人一人が主体性を持ち、心映えをもって善悪優劣を正しく判断して行ける世の中になって欲しいものだ。

 

(6)

 

 西洋音楽をもってする青少年の健全育成の問題がある。今や青少年の音楽活動は活発である。ブラスバンドも盛んである。国や県や市が支援をし、実際に成果を上げている部分もある。しかし、何故かどこかに欠落しているものがある。

 青少年のそうした活動に不可欠なものは、基本的に積極的な取り組みだが、押し付けでもなくスパルタでもなく、子供たちが自然に好きになれるよう導こうとする保護者の愛の姿勢であり、教育者を含む国民全体の理解と意識である。即座の結果を期待せず、長い目で見守る心がそれを支える。西洋音楽は一朝一夕で仕上がるものではないのだから・・・。

 音楽は楽しんでこそ意味がある。技術錬磨を優先する楽しめない音楽環境は意味がない。たとえプロを目指そうと目指すまいと基礎が大事である。そして音楽をする心である。少しでも綺麗な音が出せたなら、また一瞬でも心に響く色合いを味わえたなら、誰しもが喜びを感受するに違いない。だから最低限において純粋に音楽をする場が必要となる。ただ漫然と弾いているだけでは、何の成果も生まれはしない。最終的な喜びのために、適切な環境の中で系統だった指導を受けることが望ましい。

 今の日本が考慮すべきは、プロを育成することではない。底辺の拡大を目指し、良き聴衆を育てることにある。10年先、20年先、30年先、子供たちが成人し、更に彼らが子孫を設ける時代を推し量った上での地道な育成活動が続けられ、いわゆる順当な歴史を構築しようとする心意気が必要不可欠なのではなかろうか。

 日本では、大人のアマチュアオーケストラ活動も盛んである。アマチュアとして西洋音楽を嗜むことには大いに意義があり、まさに高尚な趣味である。共同意識の中で、お互いに協調性を求め合いながら尚且つ個人の主張も活かされる。オーケストラならではのメリットである。

 もう一つ、ヨーロッパでの体験談を書いておくとしよう。ウイーンの音楽学校からベルリンの音楽学校へ移籍したばかりのこと。あるアマチュアの弦楽四重奏団のもとへ、師匠から紹介され手伝いに行ったことがあった。チェロのメンバーが病気になったので欠員補充として頼まれた。私にしてみれば学生とはいえ一応プロという自負があったので、割と気楽に、それも少し甘く見た風に練習場所を訪ねた。演奏したのはベートーヴェンの弦楽四重奏曲であった。「せーの」で最初の一音が発せられた時、私は愕然とした。目の当たりにしたのは彼らの技術レベルの高さと、それ以上に彼らが実践している音楽表現の豊かさであった。

 彼らにとっては、まさしく自分たちの音楽であるからして至極当然のことかも知れないが、彼らは音楽学校で専門的に音楽を学んだわけではない。医者であったり実業家であったりと様々な職業に携わっており、決してプロの演奏家ではないのだ。私は、ただひたすら脱帽し帰宅した。私自身の心の狭さと未熟さのすべてを痛感した。それが歴史の重みなのだと実感した。彼らは音楽に没頭し、切磋琢磨し、本物の音楽を実践していたのである。そしてその姿勢は終始謙虚であった。

 人間は、主体性を発露させなければならない。主体性は、人間が所有し得る特権であるはずだ。人間には、少なくとも思考能力というものが備わっている。主体性によってもたらされる真の「自由」の営みこそが「文化」である。

 揺るぎない国の威光を築くためにも、今こそ『自由の本質』を見極めなければなるまい。

 

(完)

 

☆ ☆ ☆

 

 原稿をもとに打ち直してみた。文章力の未熟さを再度思い知ったが、これが当時の新聞紙上に連載されたものかと思うと、恥ずかしさが込み上げて来る。今から20年近くも前の文章である。今更何を言ったところでどうにもならないので、諦めるより仕方がない。

 文章における問題は兎も角として、ここに込められた私の根本理念は未ださほど変わってはいない。私自身が日本人として、この国で誇りをもって生きて行きたい一心の切なる祈りを綴ったに過ぎない。

 「自由の本質」というものを核に据えた国民のための最良の社会環境が、この国においても構築されんことを願うばかりである。

 


 

(30)弘教寺コンサート無事終了

 

 2017年10月21日(土)14時開演、弘教寺仏教壮年会結成20周年記念コンサート『音楽言語で覗く極楽浄土の世界』を実施した。台風影響下の雨模様の中にもかかわらず、沢山の方々にお越し頂いた。

 

 この浄土真宗の寺では、このような行事に門徒以外の方々も受け入れている。実は私の家系も代々浄土真宗の檀家であるが、だからといって特に敬虔な信者というわけではない。我が家にも仏壇があり代々の位牌を祭っている。そして折々に礼拝する。

 

 西洋音楽を生業とする者がキリスト教信者でなければならないという決まりはまったく無い。そしてまたその逆も真である。

 

 私がヨーロッパ滞在中には、カトリックやプロテスタントの大小の教会で幾許か演奏をさせてもらった。様々な祭礼に演奏者として招かれ、バッハ=グノーのアヴェ・マリアやヘンデルのト短調のチェロ・コンチェルトなどをパイプオルガンと共に演奏した記憶がある。

 

 「音楽する」ということは、いずれにしても神を崇め、心を純化させることから始まるのかも知れない。或いは神を崇めずとも、己自身の心に問い己自身を無にし、そして純度を高めることが不可欠なのかも知れない。嘘偽りや汚れがあっては「音楽する」ことに及ぶべくもないのかも知れない。だからこそ祈り、懺悔をせねばならないのであろうか・・・。

 このことについては、語れば長くなるので後日改めて展開したい。

 

 久しぶりの弘教寺コンサートであった。何を隠そう、2年前にこの寺ではっきりと引退宣言をしたわけだが、臆面もなく再登場してしまった。

石場惇史君との邂逅により音楽家を復活させることができたとはいえ、実は内心忸怩たるものを抱えながら臨んだ次第である。しかし臨んでみれば、心意気は盤石の備えにてすべての物事を払拭し喜びに変えてくれたのである。

 

 この日は、日本古来の木造家屋の中で、長雨の情況によりチェロは満遍なく湿気を帯びてしまった。コンパネを用いた反響板や組み立てた山台等々・・・石場君が苦労して設営し、この寺においてこれまでにない理想的舞台が施されたが、湿気を帯びたチェロは今一つ鳴りが悪く正直残念であった。しかし、音楽説法の石場惇史君とピアノの河原千尋さんの厚意あるサポートのお陰で、チェロの鳴り具合に臆することなく精神的満足感を享受させてもらった。

 数十年に及び、大体において演奏会終演後には、様々な主観的客観的結果をもって必ずといって良いほど不満感を覚えたものである。ところが今回は心残りというものは皆無となった。

 

 石場君の音楽説法については思った通り見事な口調で、内容においても一般の人に極めて解り易く説かれ大変好評だった。今回は対象者に合わせ軽いタッチの説法となったが、恐らく哲学的な本格説法も彼の得意とするところに相違ない。「まさにそれは彼の天職である」と、私は思う。

 河原さんのピアノ演奏もまたそれが天職というに相応しい、果てしなく透き通る音色と共に心を投影した「音と言葉」の極みが表出されている。人々はその美しさに酔いしれ心底感動するのだ。

 

 月並みな言い方だが、私はこの歳になってこのような音楽会に参画できたことに深く感謝し、「生きていて良かった!」と胸を張る。